日本は座してジリ貧に陥るか、死中に活を求めて立ち上がるか、二者択一の岐路に立たされたわけである。そしてその頃の日本国民は、何もなすことなくアメリカに屈伏する程、気の弱い国民ではなかった。
八月二十六日には、近衛首相のルーズベルトに対する洋上会議の提案は拒否され、九月六日の御前会議に於いて、「帝国は自存自衛を全うする為、対米英蘭戦争も辞せざるの決意の下に、概ね十月下旬を目途として戦争準備を完整する」。という帝国国策遂行要領が決定された。
四方の海、みなはらからと
思ふ世に
など波風の立ち騒ぐらむ
という、明治天皇の御製を朗読され、
続いて、
「私は常にこの御製を拝誦して、平和愛好の精神を紹述することに努めている。戦争は極力避けなければならない。
今わが国が戦争か平和かの岐路に立っている時、統帥部は責任ある答えをしていない。」
と叱責遊ばされた。通常の御前会議では、陛下は御発言遊ばされないことになっており、ここでは異例のことで、それも陛下が仰せになられるのは感想を述べられるまでで、「戦争をしてはならない」というような政治決定は、憲法の建前上できないのである。
統帥部をお叱りになられたのは、その前に、杉山参謀総長が内奏の際
「若し戦争になったら、どれ位の期間で片付くか」
との御下問に対して、
「約三ヶ月くらいで片づけるつもりであります」
と奉答したところ、大きな声でお叱りがあった。
「お前が陸軍大臣の時、事変は一ヶ月ぐらいで片付くと申したのに四年たってもまだ片付かぬではないか。」
「はい、なにぶんにも支那の奥地は広いものですから。」
「支那が広いと申すなら、太平洋はもっと広い。いかなる根拠があって三ヶ月と申すか。」
杉山総長は答えることが出来ず、満面朱をそそいで退出した。また、海軍の永野軍司令部に対し、アメリカと戦って勝算があるかとの御下問があり、
「勝てるかどうか覚束ない次第でありますが、座して屈伏するわけには参らず、ほかに活きる道はないように思われます。」
「それでは、俗に言う捨て鉢の戦ではないか」
と仰せられ、永野部長も返答に詰まって退出した。
日露開戦のときも日本には確固たる戦勝の自信がなかったが、英国は日本と同盟を結んでおり、米のルーズベルト大統領も日本に好意的なので、日本政府は開戦と同時に、金子堅太郎をアメリカに派遣して、戦費の調達と終戦への道を模索した。しかし大東亜戦争のときは四面楚歌で、戦勝の自信もなければ、終戦の構図を描く手立てもないままに、戦争に突入させられてしまった。これ程自信がないのに戦争を始めたということは、おそらく世界の戦史上にも類例がなく、反面から見れば、それほどまでに追い詰められていたことが察せられる。
前ページ | 表紙目次 | 次ページ |
戦友連の表紙へ |