二、大東亜戦争の原因と経過

(八)宣戦と経過



大東亜戦争開戦ノ「詔書」




天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践メル大日本帝国天皇ハ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス

朕カ陸海将兵ハ全力ヲ奮テ抗戦ニ従事シ朕カ百僚有司ハ励精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々ソノ本分ヲ尽シ億兆一心国家ノ総力ヲ挙ケテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ


抑々東亜ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄与スルハ丕顯ナル皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷(エンユウ)ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列国トノ交誼ヲ篤クシテ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ之亦帝国カ常ニ国交ノ要義ト為ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両国ト釁(戦)端ヲ開クニ至ル洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華国民政府曩ニ帝国ノ真意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ安定ヲ攪乱シ遂ニ帝国ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有余ヲ経タリ幸ニ国民政府更新スルアリ帝国ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ残存スル政権ハ米英ノ庇護ヲ恃ミテ兄弟未タ牆ニ相鬩クヲ悛メス米英両国ハ残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞ウセムトス剰ヘ與国ヲ誘イ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ更ニ帝国ノ平和的通商ニ有ラユル妨害ヲ與ヘ遂ニ経済断交ヲ敢テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ回復セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交譲ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ッテ益々経済上軍事上ノ脅威ヲ増大シ以テ我ヲ屈従セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亜安定ニ関スル帝国積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝国ノ存立モマタ正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為蹶然ト起ッテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ

皇祖皇宗ノ神霊上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス

   御名御璽

     昭和十六年十二月八日

         各国務大臣副署




昭和十六年十二月八日、日本国民の如何に多くの者が心の底から開戦を支持し、熱狂的な賛意を表したかは当時の新聞が克明に物語っており、戦争を支持しなかった者は絶対的少数であった。

「戦えば敗れるかもしれない。戦わなければ更に惨めで屈辱的な結末を甘受しなければならない。日本が立たなければ、米英は戦わずして、戦争に勝ったと同じ目的を達成できる。反対に日本は戦わずして、戦争に負けたと同じ苦境に立たされる。戦争に踏み切れば、大国アメリカやイギリスを屈伏させることは出来なくても、優勢のうちに事態を解決して、ハルノートという苛酷で屈辱的な要求よりも、多少は有利な条件で妥結出来るかも知れない。」。

これが日本の置かれた立場であって、正に「死中に活を求める」最後の方策であった。繰返すが、当時の日本国民は、戦わずして屈伏する程無気力な民族ではなかったのである。


また国内的にも、若し陛下が開戦を強く拒否されたならば、あるいは、陛下に御譲位を迫り、秩父宮殿下を天皇に仰ぐという強硬派のクーデターが起こっても不思議ではない程、世論は激昂したであろう。かくては国内は収拾のつかない内乱状態になり、戦争をする前に日本は自滅の道を歩むことになっただろう。それ程までに追い詰められ断崖に立たされたのである。極東軍事裁判の時、岡田啓介元首相は「日本には、このとき戦争か内乱か、二者択一の道しか残されていなかった。」と述懐しておる。

マッカーサー元帥は、昭和二十五年十月十五日、ウエーキ島に於けるトルーマンとの会談で、「東京裁判は誤りであった」と述べ、また翌年五月三日、アメリカ上院外交軍事委員会の公聴会で「日本が開戦の決断をしたのは、その殆んどが安全保障(自衛)の為であった」と言っている。

これが冷酷な世界の本姿で、日本の戦争回避努力も、そして陛下の平和を願う大御心も、巨獣の世界戦略の前には、一匹の子羊にしか過ぎなかったのである。敗戦によって東條大将は、戦争責任を背負って逝かれた。戦争を始めたのは日本国民ではなく日本軍閥であり、その元凶は東條であると言う、連合軍の巧みな宣伝については前にも述べた。今でも日本人の多くは、東條さんを大悪人にして居るが、戦争へのレールはアメリカによってとっくに敷かれていたのであって、あの時点で誰が首相になっても、戦争を回避することは出来なかったのであり、東條大将は無慈悲な十字架を背負わされた悲劇の総理大臣であったのである。


日本の外交交渉は戦争準備完整の為の時間稼ぎであり、その上真珠湾で卑怯な騙し討ちをしたということが世界の定説のようになり、そのように思っている日本人も多いが、歴史の真実は正しく訂正されなくてはならない。


日本は極力、対米戦争を避けたかったのだが、追い詰められて遂に開戦に踏み切ったことは前にも述べた。山本聯合艦隊司令官は、真珠湾攻撃命令を下達するに当たって、若し攻撃前に交渉が妥結したならば、たとい飛行戦隊が真珠湾の直前に差し掛かっても、直に引き返すことを厳命し、その命令に従えない指揮官は、今すぐ辞表を提出せよと言っておる。

この頃には日本外交暗号は解読されていた。「マジック情報」と称せられて、日本の手の内はアメリカに筒抜けになっていた。後に海軍の暗号も解読されて、山本司令長官は、その為待ち伏せ攻撃に遭って戦死されたのである。

真珠湾の奇襲は、それ程敵の意表を衝く見事なもので、長く東西の戦史を飾るに相応しいものであったに拘らず、出先大使館の怠慢により、通告前の騙し討ちとなり、末代までも歴史に汚点を遺すことになったのは、極めて遺憾なことであった。かくて、日本海軍の血の滲むような猛特訓も、巧みな陽動欺瞞を交えた周到な企図の秘匿も、岩佐中佐以下九軍神の特殊潜水艇による必死攻撃も、不名誉な騙し討ちという汚名の下に葬り去られてしまったのである。


十二月八日早朝の大本営発表を聞いたときの国民の感激と興奮は、四十数年後の今もなお記憶に新たなるものがある。真珠湾奇襲の成功は、日本国民の志気を鼓舞するに余りあるものがあった。しかし皮肉なことに、それが「リメンバーパールハーバー」という合言葉になって、アメリカ国民の敵愾心をも奮起させる結果になってしまった。

航空機の発達した今と違って、アメリカ国民の目には、アジアも欧州も遠い大陸の出来事としか映らず、盟邦イギリスが累卵の危きに曝されているというのに、アメリカの世論は至って呑気で、非常時意識がさっぱりない。ルーズベルトやハルが躍起になって国民に訴えても、火の粉も振り掛かってこない対岸の火事を、血を流してまでわざわざ消しに行こうという者は居ない。

そこで計画されたのが、日本に先に手を出させる方策であったが、その計画はまんまと図に当り、その上騙し討ちという願ってもない付録がついて、アメリカ人の愛国心を掻き立て、真珠湾奇襲を契機として、アメリカの大軍は陸続として太平洋に欧州大陸に出動して行った。


今にして思えば、あれ程強靭な精神力を持っていた軍隊はおそらく二度と地球上に存在することがなく、また、あれ程装備や兵站を軽視していた軍隊もなかろう。陸海軍ともに、日露戦争以降驕れる軍隊になってしまっていた。

奉天会戦は、既に国力戦力の限界点に達していた日本軍の際どい勝利であって、砲兵はズク弾と呼ばれた鋳物の砲弾さえも射っていた有様であった。若し露軍が態勢を整えて本格的攻勢に転じてきたならば、あるいは後年のガダルカナルやダンケルクのように、日本軍は東支那海に叩き落とされていたかもしれなかった危ないところであった。

海軍の日本海々戦は、世界史に遺る殲滅的大勝利であって、東郷元帥の偉大な功績は末代まで語り伝えなければならない。しかしこれも、バルチック海から長途航海してきて疲れ果てた艦隊を手薬煉引いて待ち受け殲滅したもので、孫子の兵法の逸を以て労を討ったものであった。

此の両役は後世共に大勝利と喧伝され、台湾に於いては昭和十年頃まで三月十日の陸軍記念日、五月二十七日の海軍記念日には小学児童が旗行列をしたりして奉祝したものだ。私達はかように教わり信じて来たのである。必勝の信念を植えつける為には、確かに大きな効果があったが、いつの間にか世界無敵の軍隊という自惚れが根差したことも否定出来ない。しかし陸海軍の大惨敗を招いた原因は之が為ではなく、煎じ詰めれば貧乏国の悲劇で、装備の劣悪や兵站の不足を補う為には、敢えて精神力に頼らざるを得なかった所に根源が有ったとも言えよう。大正時代のデモクラシーの風潮に続く軍縮で軍事予算は削られ、道行く将校が「税金泥棒」と罵られ唾を吐きかけられるような時代に、装備の改善補強などは到底望むことが出来ようか。「治にいて乱を忘れた」国民が二流装備の軍備にしてしまい、気がついた時にはもう手遅れであった。


シンガポールが陥落して間もなく英軍俘虜を使って飛行場を建設させた。三ヶ月かかっても完成できない。彼の俘虜曰・・・・・・・・・・「我が英国なら一週間もいらないよ。之でも日本は勝つつもりですか」「馬鹿いうな」「馬鹿ではありませんよ班長殿」と監視兵(台湾軍属)に言うたそうである。

必勝の信念や攻撃精神は、第一線の将兵に必要なものなのに、大東亜戦争では統帥までがこれに頼るようになっていた。的確な情報と戦略術の下で充分なお膳立てを整え、第一線に「さあ、これでよし戦え」というのが統帥の責任だ。弾も食も与えずに戦えという無茶苦茶な命令を下し、若しそれでも運よく勝てば参謀の手柄、負ければ第一線部隊の責任というのが日本の統帥で、犠牲の最も大きかった悲劇のインパール作戦の如きがそれであった。


今の感覚では到底考えられない事だが、その不可能な命令に対して第一線部隊は一言半句も言わず、黙って命令に服従して潔く玉砕して行った。それが日本の軍隊だった。「第一線将兵は実に勇敢だが、将軍は凡庸だ」という外国の日本軍評は的を射たものと言わざるを得ない。これは、大東亜戦争だけではなく、戦闘に勝っていた満州事変も支那事変もその通りである。新聞には連戦連勝の大勝利と宣伝されていたが、その実態は悪戦苦闘の連続で相当な犠牲を出している。其れを反映した次の歌は、事変中よく歌われたものゝ一部である。


「討匪行」の一節

どこまで続く泥濘ぞ
三日二夜を食もなく
雨降りしぶく鉄兜

既に煙草はなくなりぬ
恃むマッチも濡れ果てぬ
飢え迫る夜の寒さかな


「父よあなたは強かった」の一節

敵の屍とともに寝て
泥水すすり草を噛み

―――――――

骨まで凍る酷寒を
背も届かぬクリークに

三日も浸っていたとやら
十日も食べずにいたとやら



これらはその一部に過ぎないが、当時は軍人の義務として銃後で力強く歌われた。然し前線将兵の苦労を伝えたものとは言え、あの時は兵役義務のない植民地台湾の人民ですら、「これは勝っている皇軍の歌なのか」と疑問をいだいたものの、批評でもしたり口を滑らし等でもしたら大へんな事になる。だが、植民地とは言え、吾も同称の日本人、あの苦労を内地人にばかり担がせてはならない、何が待っているか分らないが、それでも我々は国民の責務を自覚して志願してまで戦場へ赴いた。(私の場合は血書嘆願書である)


戦争を始めるからには、その収拾の目算も一緒に立てるのが為政者の重責である。これをせずして戦争をはじめるのは無責任も甚だしい。戦争も政治の一部であり、戦力に頼る外交交渉であって、為政者は収拾の責任を負担し、軍は戦争遂行に責任を果たして、戦争という政治行動を遂行するのである。

日露戦争開戦の時、兒玉源太郎総参謀長は、「この戦いの勝敗は五分五分だが、せめて六分四分に持ってゆきたい」と正直に打ち明けており、大山巌総司令官も「戦は任してもらうが旗振りは頼みましたよ」と、伊藤総理に話して出征した。旗振りとは戦争を止める合図である。そして金子堅太郎は開戦するや直ちにアメリカに飛び、戦費の調達と終結工作に乗り出した。奉天の大会戦が終ると、兒玉大将は極秘裏に東京に帰り、

「戦争を始めた者は戦争を止める才覚がなくてはならぬ。この貧乏国がこれ以上戦争を続けて何になるか。陸軍はもうこれ以上戦争は出来ない。一日も早く終戦工作をしてもらいたい」と訴えておる。


日露戦争当時の政治家も統帥も、ともに明治維新を成し遂げた武士達で、底流には共通するものがあって、両者は緊密に連携しておった。大東亜戦争は、政治と統帥が実質的に軍が握っていて一体となっていたようなものであったが、偉大な政治家も将軍も現れず、確固とした終結の目算もなく、ずるずると戦争に足を踏み入れたと言える。何とかして対米戦争を避けたいと思いながらも追い詰められて、とうとう矛を取らされる羽目に陥ったものであり、また日露戦争の時のように、我が国に好意を寄せる中立国もなかったのだから、一概に非難することは出来ない。後に、唯一の中立国であったソ連に調停を頼みに行き、スターリンに熱湯を浴びせ掛けられたことは皆のよく知るところである。


シンガポール陥落の時も、停戦交渉の一好機であったかも知れない。天皇は「人類平和の為、惨害が拡大してゆくのは好ましからず」。

と仰せられ、木戸内大臣を通じて、なるべく早く戦争を終結するようご希望を述べられたが、アメリカが停戦に応じるかどうかは知らないが、シンガポール陥落は一つの山場であったことは間違いない。しかし、緒戦からの予想以上の大戦果に朝野を挙げてのぼせ上がり、停戦交渉どころか、シンガポールを昭南市と名付けて悦に入っている始末で、これでは侵略と言われても弁解が出来ない。

日本はアメリカの物量に負けたことは事実としても、その体質に於いても負けるべくして負けたとも言える。それは指導者に確固とした哲学がなかったからだと思われるが如何であろうか。


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