一 靖国神社問題の本質



靖国神社問題は、当初、全国遺族の願いとして昭和二十七年以来運動され、全国民的規模としての運動は、昭和四十四年六月、三十余団体による国民協議会結成以降のことであります。

従って一般国民とくに自民党において、今なお日本遺族会のみの運動としてとらえられておるのは止むを得ないこととも思いますが、今日の時点においては、遺族たちの意識の中にも単に遺族個々の願望から脱して、さらに高度の問題意識にまで高められておることを、認識しなくてはならないと感ずる次第です。

すなわち、昨年六月国民協議会の運動方針の反省と検討において、「靖国神社問題はわが国の基本的なあり方に関する問題であり、七十年代を迎え重大な転機に際会しているわが国にとって、国民的課題の焦点ともいうべき問題である」との認識にたち、単に一遺族会としての問題を越えた立場を明確にいたしました。

われわれは、靖国神社の国家護持を実現することが日本の政治を正し、国民思想の正常化、ひいては日本および世界の平和と繁栄にかかわる重大問題であると認識しているわけです。


(昭和四十六年五月)







靖国神社法案は去る国会で三度目の廃案を喫したが、当時、心ある者が自民党の不誠実さを痛憤慨嘆したことは記憶に新しい。

しかし問題は怒りや嘆きのみで解決するものではない。自民党の不誠実が何に由来するかを分析することが必要ではないか。われわれはその原因について、自民党議員の靖国神社問題に対する認識の不足を挙げたい。

我々の判断によれば、自民党議員の多くは、靖国神社国家護持を、ただ英霊に対する供養の問題と考えている。更に甚だしきは、遺族が肉親の情として国家祭祀を願っている問題、と解釈している者さえあるようである。

こうした認識だから、靖国神社法は何時になっても真剣に取り扱われない。曰く「今国会は重要法案があるから靖国神社は後回しだ」。曰く「この問題を取り上げれば自民党の支持票が減る」。

我々の考える靖国神社国家護持は、もっと次元の高いものである。すなわち、まず国家は英霊に対する約束を果し、国家道義の大本を正してもらいたい。第二には、英霊の精神を今の世に生かし、真の平和の礎を固めてもらいたい。ということである。

殉国の英霊を国で祀ることは、国家の国民に対する約束の中でも最たるもので、この実現なくして国家道義の確立はあり得ない。

また、英霊の精神は奉仕の精神、犠牲的精神の権化である。昨今世情の騒然たる、一にかかって国民が私利私欲に走って奉仕の精神を忘れ去ったことに起因する。奉仕の精神なくして真の平和はないのである。

靖国英霊の崇敬は、この奉仕の精神の再認識から始まる。そして真の慰霊は、英霊の精神を国民の心の中に生かすことを措いてほかにない。

世に言う「軍国主義の復活に繋がる」等は取るに足らぬ妄想だが、百歩譲ってその憂があるとしても、それは英霊を国家で奉斎する帰結としてではなく、政治の貧困と国民の愚かさから生れる別の問題である。言い換えれば、正しい政治と国民の叡智があれば、靖国神社の国家護持が実現しても、日本の軍国主義化はあり得ない。


(昭和四十六年七月)







靖国神社の国家護持は、「宗教法人靖国神社」を「特殊法人靖国神社」に改め、公に敬意を表わしたり、保全の道を講じたりすることが出来るようにしようというものです。

すなわち、

  1. 祭神の決定を国で行うこと。
  2. 天皇、総理大臣、自衛隊などが公式に参拝できるようにすること。
  3. 国費が支弁できるようにすること。

などが主な内容です。

注意していただきたいのは、世間ややもすると、靖国神社の維持、管理を国費でまかなうことが主目的のように考えられがちですが、これは誤りです。

では最も大切なことは何か。

それは靖国神社創建の趣旨と伝統を回復することです。
すなわち、

国として公式にお祭りすることにより、

  1. 国家道義の根本―――国家の国民に対する約束の最大なるものを果す―――を確立する。
  2. その儀式、行事を通じて英霊の精神(奉仕、犠牲の精神)を今の世に生かし、かつ後世に伝えることです。

これなくしては、真の平和も、民族の繁栄も望むことができません。


(昭和四十六年十一月)







最近アメリカは、日本の頭越しに(予告なく)中共と親善外交を開始して、われわれを驚かせました。アメリカや中共は、どうしてあんなことをやったのでしょうか。

理由は簡単です。アメリカにも、中共にも、ああしなければならない家庭の事情があったのです。

アメリカはベトナムから名誉ある撤退を実現し、かつ自国の経済を立直すために、

一方、中共は、ソ連の恐威から逃れ、かつ国内経済の破綻から脱出するために、お互いの国交改善が必要だったのです。

そして、自国の都合のためには、

言いはやされた中ソの「一枚岩の団結」も、日米の「水も漏さぬパートナーシップ」も、一片のほごとなりはてました。

しかし、こんなことは今始まったことではありません。長い人間の歴史は、いつの時代もこうした国々のエゴイズム(利己主義)によって織り成され、それゆえに戦争が絶えませんでした。

戦争の原因―――それは国々のエゴイズムです。

社会のイザコザ―――それはお互いの利己主義のぶつかり合いです。

だから真の平和は、お互いが利己心を抑えて他人のために尽すこと。すなわち奉仕の精神を忘れて実現はあり得ません。「奉仕の心」は「平和の心」と言うべきです。

靖国神社の祭神は、人間最大の奉仕―――おのれの生命を投げうって同胞のために死んだ人々です。この精神を受け継がずして、何の平和が維持されましょうか。靖国神社は平和のシンボルなのです。


(昭和四十六年十一月)







うまいものが食べたい、きれいなものが着たい、立派な家に住みたい、・・・

昔ある人が「人間はW欲”という字に手足を付けたようなものだ」と言いましたが、まことに名言だと思います。

しかし人間社会は、いつの世も欲望があったから進歩を続けてきたし、だから「幸福とは欲望が満たされること」と言った人もあります。W欲望”必ずしも悪くありません。問題は節度です。欲望の節度を失うと、他人とイザコザを起こし、国と国では戦争になります。

平和―――それは幸福をつかむための基礎条件です。平和が崩れれば、いかなる欲望も根底からゆさぶられ、幸福は得られないからです。

すると、欲望の限度は「平和を崩さないこと」になりはしないでしょうか。

「欲望と平和」、それは「戦争と平和」の問題です。静かに考えてみましょう。

現代の日本は、まことに「欲望野放し時代」です。このままでは国の内も外も平和が崩れてしまいます


(昭和四十六年十一月)








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