反対論の正体



靖国神社問題は、戦後二十四年にして、ようやく国民各層の関心をあつめつつあり、国会においても靖国神社法制定の動きが具体化し、去る六月三十日、自由民主党は「靖国神社法」案を国会に提出しました。

しかし、これに反対する運動も活発化していることはご承知のとおりです。反対論は、いろいろな角度から主張されていますが、いずれも、靖国神社の本質について正しく理解しないためであり、少数の宗教的信条に基づく人人以外は政治的な意図による反対のための反対をしていると思われる点が多い。民族の伝統や国家概念を軽視する風潮に流され、もっともらしい違憲論などに同調し、法案の内容など一べつさえもしないで、附和雷同する人人が出てきたわけであります。

そもそも戦没者は、それこそ思想、信条、宗派をこえて国に殉ぜられたのであり、一般国民もまた、思想、信条、宗派をこえて靖国神社に参拝し、そのみたまを慰め、感謝のまことを捧げてきたわけです。これこそ、創建以来今日まで変ることのない日本国民にふさわしい真実の姿です。敗戦によってすべての価値観が一変し、全く別な日本になってしまった、と言う靖国神社反対論者の発想自体真実に反し、いまだに占領政策の残滓にしがみついているものと断ぜざるを得ません。日本国民として、日本の歴史、伝統、さらには日本人自身に対し、もっと正しい態度と自信をもって問題の本質に迫ることこそ肝要と思われます。

いずれにせよ、靖国神社問題が広く国民的論議を呼ぶに至ったことは、遅かりしとはいえ、国民思想がまともに戻りつつある兆候として歓迎すべきことと考えます。マスコミに対しては、本来の使命に立って公正に批判し報道することを、私どもとしては要望するとともに、国民の皆さんが正しい理解をもち、靖国神社国家護持運動に支持を寄せられることを念願してやみません。







以下に代表的な反対論についてその正体をみてみましょう。






(1)靖国神社の国家護持は、政教分離を 定めている憲法に違反するという説




靖国神社は憲法にいう宗教団体であるという断定に立っての反対論です。靖国神社が決して宗教として創建されたものでないことはもちろん、今日に至るまでその本質は変りなく、国のために殉じた人人をしのび感謝の念をあらわすところにあります。政教分離の規定は元来、国家と教会との分離を定めたのがその沿革ですが、靖国神社には教義もなく信徒もありません。まら安心立命を求めて参拝するところでもありません。したがって、憲法でいうところの宗教団体ではないのです。ただ占領政策の結果、宗教法人として登記しているために、形式的に宗教であるとの誤解を生んでいるので、この点を是正し、新しい法律の特殊法人とすることが必要とされているのです。






(2)宗教法人を権力で解散させることは、宗教に対する圧迫の例を作るという説




靖国神社法案は、靖国神社を宗教法人から特殊法人に移行させることを規定しています。しかし、それは宗教法人靖国神社の自発的申出によって、はじめてその道がひらかれるようになっています。靖国神社が宗教法人化されたのは占領軍の強制によるものであり、国民の意思でも、神社当局の意向でもなかったことは明白な事実です。靖国神社側は、かねてから靖国神社の国家護持を要望し、最近、改めて靖国神社法が成立すれば直ちに宗教法人を離脱する意向であることを表明しているのです。反対論者が、靖国神社は永久に宗教法人でなければならないとするなら、それこそ不当な干渉であるといわねばならない。また、これが前例になり、他の宗教法人にも及ぶという懸念は、これまた靖国神社の特異性を忘れた妄想または杞憂といわざるを得ません。






(3)信教の自由を侵害するという説




靖国神社は超宗教的な存在であり、靖国神社に参拝しても、仏教やキリスト教など個人の信仰とは、なんら抵触しません。靖国神社を国家が護持しても、参拝が強制されるわけではないから、信教の自由を侵害することにはならないのです。靖国神社の祭神は、西洋流のゴッドとは全く本質的に異なるのです。

近代日本の代表的学者であり思想家であった小泉信三博士は、敬けんなクリスチャンであったけれども、永く靖国神社の崇敬者総代をつとめ、また戦死されたご子息のため神式で葬式を行なっております。靖国神社が宗教でないことを、身をもって示されたものであります。






(4)靖国神社法は、靖国神社を否定するものであるという説




靖国神社に英霊をまつることは宗教色を帯びるということから、国家護持のためには宗教色を払拭せねばならず、そうなると、靖国神社法は英霊の神格を否定する結果とならざるを得まい、というわけです。

靖国神社には、神霊が厳として神鎮まっていることは、国民的、民族的信念であり、不動の事実です。しかし、それがために宗教となるものではありません。靖国神社法は、宗教法人靖国神社を特殊法人に改め、国家の手で護持する場合の憲法上の疑義をなくするための立法です。単なる法律で神霊をあらしめたり、なくしたりすることは、それこそ法律の限界をこえるものであり、靖国神社法制定の目的とするところではありません。






(5)神道的儀式を行なうことは特定の宗教活動であり、憲法に違反するという説




神道的な儀式行事は、日本民族の古来の習俗であって、宗教活動ではありません。国および公共団体によって行なわれる建設工事の際の神式の起工式や竣工式、これまで衆議院、参議院の院葬の際、神式または仏式で儀式が行われたことなどが宗教的活動とみられないのと同様であり、これらはすべて合憲と解釈されております。憲法は、あくまで伝統、習俗、国民感情などを考慮し、その実情に合致するよう解釈、運用されるべきことは当然です。






(6)靖国神社は現状のまま国民護持すべきであるという説




宗教団体の方面でしきりに国民護持ということが主張されていますが、そのこと自体、靖国神社を超宗教的なものと考えている証拠であります。国民護持ということが、国家護持の反対概念として提起されるべきものではありません。それは国家と国民は対立するものという前提に立っているわけですが、民主主義を基本とする現在のわが国では、国家護持即国民護持であります。戦後二十余年、心ある国民によって護持されてきたのが靖国神社の実態です。それを全国民の手で子々孫々にいたるまで護持してゆこうとするのが国家護持にほかなりません。今ごろになって国民護持を言い出す人たちは、終戦以来、靖国神社の護持のために、実際に払われた苦労が、どれほどのものであったか果たして承知しているのだろうか。






(7)軍国主義の復活や国家神道の復活に通ずるという説




この問題に限らず、何かというと出てくるのが軍国主義復活論や戦争に通ずるという主張です。このこじつけ論ほど、英霊と日本国民を侮辱するものはないと思います。こうした無責任な煽動こそ、国論分裂の大きな原因となっているのです。

英霊の尊い犠牲とその精神を忘れないところに、キリスト教、仏教はじめ正しい宗教観に通ずる真の平和と発展があり得るのです。そのためにこそ靖国神社を、日本という国家が護持するという精神的基礎があるわけなのです。






(8)靖国神社のほかに施設を設けるという説




なぜ百年の歴史をもつ靖国神社ではいけないのか、民族の歴史と伝統に基づき英霊をまつることは、何れの国においても行われているところです。「靖国神社で会おう」と言いかわして肉親たちと別れ、戦友と誓いあって散華した英霊をまつるのに、靖国神社以外どこにふさわしいところがあり得るのか。どんな立派な慰霊堂や記念堂を考えてみたところで、靖国神社に代りうるものは決して人工的にできるものではないのです。偏見をすてて、すなおに、靖国神社をまもり、次の世代に伝えてゆくのが、現代のわれわれの責任だと信じます。

なお、戦没者以外の戦災死者等の霊についても、国民として意見をもちうべきことは当然です。国家としても考慮すべきことと思います。それは靖国神社国家護持の問題とは自ら別個の問題として、措置されるべきことはいうまでもないと存じます。


(昭和四十四年八月)








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