「軍国主義復活論」に思う



靖国神社の国家護持に関する反対意見を大別すると、一つは憲法違反、一つは軍国主義復活につながるというにあるらしい。

憲法問題については、またの機会にゆずるとして、さて靖国神社が国家護持されることによって、どうして軍国主義復活につながるのか、どうも私にはその結びつけに合点がいかない。

いうまでもなく、靖国神社というのは殉国の英雄が合祀されている御社であって、日本人なら当然のこと、各国にもそのことは紹介され、それが故に多くの外人参拝者を迎えているといったのが、現在でもの神社の実情である。とすれば、靖国神社が国で祀られることに異論はないと思うのが、常識というものではないだろうか。

たしかに戦時にあっては、靖国神社の名がいろいろな面で利用されることはあった。そのことに関しては、私も率直に認めざるを得ない。しかし、それは神社がもの申したのではなく、作為的人物の登場によるものにほかならない。そうしたいまわしい過去を二度とくり返してはならないそのことは、こぞって反省すべきであるが、それを靖国神社国家護持問題と結びつけ、悪しく解釈して語るというのは、どうも納得いかぬこと。ことにその人の口から平和の声を耳にすると、またそこに新たな作為を見出す。それというのは、思考をこえて当時の歌などを引用し、感情のもろさに訴えているだけならまだしも、その話がとんだところですりかえられて、おのが主義、思想のおしつけにまで発展することがしばしばだからだ。

私の身近かにも、靖国神社国家護持を口にすると「また戦争」の声をきく。あの悲惨な戦争体験者にすれば、その気持がわからぬでもない。だが、それは思い過ごしと私は説く。それでも納得のいかない方には、では靖国神社がなかったら、戦争は起きなかったといえますか、と。こんごにおいても、そうした保証は得られようはずはないだろう。そこらがぼかされて、何やらお先棒かつぎが、結果は戦争への道をたどるのだ。

靖国神社の国家護持、それと軍国主義復活の問題はおのずからして別で、それを関連させてとりあげるところに、魔の手があることを悟らなければならないのである。

素直な心で靖国神社をみつめるべきだ。


(昭和四十五年十一月)











軍国主義という、その定義は難しい。広辞苑によれば、「一国の政治・経済・法律・教育などの組織を戦争のために準備し、戦争をもって国家威力の発言と考える立場。ミリタリズム」となっている。つまり軍国主義とは、内にあっては軍事的価値を他の社会的価値に優先させ、外に向かっては軍事力をもって国策遂行の手段にするといった意味だろう。それが識者の一般通念と私は解していたのだが、どうもそれだけでは気に入らない人がいるらしい。

ちかごろ世評(といっても一部マスコミの表現)は、日本の軍国主義云々とかまびすしい。また訪中使節団なるものが先様と口をそろえては、日本軍国主義の復活ときめつけている。とかく毛色の変わったものには弱いといわれる人種とすれば、多分なご追従ともうけとれるが、どうもそれには度が過ぎる。

日本の軍国化ということにはいろいろな理屈づけがあるが、防衛力も大きな問題の一つだろう。戸締まり論の展開ではないが、平和を口にしながら暴力を行使する徒輩が横行する時代では、国家無防備論を唱える政党といえども、警察力に頼らなければならないのが、現実といえるのではないだろうか。その防衛計画(費)によって、日本が軍国主義へ傾斜というには、世界の比においてあまりにもお粗末な論拠といわなければならない。

ある人は、「おかしい」という。核保有国から日本が軍国主義化呼ばわりされるとは―――と。

その国が核戦力をもっているのは平和維持のためであり、核を持たない日本が軍国主義の道をたどっているといった印象を与えていることは、私も合点のいかないところ。

いま世界をながめ、どこが軍国主義国家かという評価はまちまちだろうが、日本においては、自衛隊は完全に文民統制におかれ、その任務は国会でチェックされ、その行動は国民によって監視されている。たとえ政争の具にせよ、お先棒かつぎの陽な流言は、不安が不安を招き徒らに国民を惑わす。

軍国主義化の警戒はすべての国に通じることであって、われわれが軍国主義ぜったい反対の訴えは、世界各国に向かっての声である。

戦友連は、悲惨な戦争体験者の集まりである。何でわれわれが戦争を美化し、軍国主義へのさきがけとなり得ようか。


(昭和四十六年八月)








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