目覚めよ 新宗連



靖国神社法案は過去四回国会に提案され、四回とも廃案になった。この過程ではっきり言えることは、そのいずれもが国会において一度も審議されることなく、ただ提案されたというままの姿で廃案になってしまったことである。

これは相撲に例えていえば、土俵上で堂々と闘って敗れたとか、引き分けになったというものではない。あたかも出番を前に花道から現われた力士が、遂に土俵に上ることなく引き上げたようなもので、まことに奇妙な現象というべきである。しかも、それが四場所も続いて繰り返されたのだから、観衆たるわれわれ国民は、この際はっきりとその原因を糾明しないわけにはいかない。

私はかねがね、靖国神社の国家護持に反対する勢力は、性格を全く異にする二つのグループがあると考えてきた。

一つは日本の共産主義革命を願うグループである。彼らは、かつてマッカーサーが日本弱体化のために靖国神社を潰そうとしたのと同じ理由で、靖国神社の国家護持に反対している。

もう一つの反対勢力は、新宗連(新日本宗教団体連合会)を主体とするグループである。このグループは主として憲法二十条の信教の自由、特に「いかなる宗教団体も国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という条項を楯取って反対をしているが、その言うところは自己集団の権益擁護臭が強い。







私はここで、以上の二つの反対勢力に対し反論を試みようとするのではない。むしr問題は全く別のところにある。

第一の問題点は、前記二つの反対勢力が全く基盤を異にしているということである。言い換えれば、一方は革命主義に立ち、一方は保守主義に立っているということである。もっと判り易く言えば、一方が、この世の中をひっくり返すために反対を叫んでいるのに対し、一方は、現在のままの世の中がいつまでもつづくことを前提にして反対を叫んでいるということである。これを呉越同舟と言うには余りにも悲しい傾斜である。

ご承知の通り、共産社会には信教の自由はない。ましてや個々の教団の存続など許されるべくもない。

では新宗連の反対は、利敵行為、自殺行為以外の何ものでもないではないか。

第二の問題点は、最近における新宗連の反対振りである。とくに新宗連の理事長をしている立正佼成会(庭野日敬会長)の機関紙「佼成新聞」は、共産党の「赤旗」も顔負けするほどのどぎつさで、反対キャンペーンをはっている。

そこには明らかに、信徒の意志を無視した教団幹部の独走が感じられ、同時に同紙編集部の極左化が浮彫りになっている。ある人は同紙を見て「ベ平連の機関紙か?」と疑ったが、新宗連の中枢はすでに某オルグによって潜入占領されているのではあるまいか。

ところで私は、先に靖国神社法案を諷して土俵に上れざる力士と言ったが、申すまでもなく、土俵上の闘いは国会での審議を意味している。そして、ここでの相手は当然野党陣営であり、前記反対勢力で言えば前者である。

では靖国法案が土俵に上ることを妨害しているのは一体誰であるか。これこそ与党陣営内に屯する新宗連議員―――新宗連の支持票を基盤とする議員―――の面々だと思う。







話は先の国会(たけなわ)の春に遡る。靖国神社問題に対する新宗連の行き方を不満として脱会した仏所護念会の○○理事が、ある日、今度は賛成派靖国協の陳情団に加わって国会を訪れた。たまたま総務会に出席のため廊下を通りかかった某自民党議員氏、つかつかと○○理事に近づいてこう囁いた。「靖国法は絶対上提させないから心配ご無用。」

ところが○○理事、喜ぶと思いのほか、色をなして「私はもう新宗連ではない、今日は賛成陳情のためにやってきたのです。」

某代議士は鳩が豆鉄砲をくったような顔をして、総務会室へ消えたという。彼は仏所護念会が新宗連を脱会したことを知らなかったのである。

この一事をもってもわかる通り、靖国法案はまだまだ土俵に上がれそうもない。味方陣営内での不統一と混迷、これに付け込む敵方の謀略、下手をすれば事態は一層紛糾して泥沼の深みに落ち込む危険さえ感じる。

古来「兄弟垣に攻めて他人に漁夫の利を占められた話は少なくない。我々は新宗連が一日も早く大局に目覚め、大同に付かれんことを熱望するものである。


(昭和四十七年七月)








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