靖国神社法案に関する憲法調査会意見








昭和四十三年四月十六日 憲法調査会総会

自由民主党政調憲法調査会

会長   稲   葉     修





第二十条 信教の自由

第一項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。

いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。






「信教の自由」の意義




宗教を信仰する自由、(信仰をしない自由をも含めて)を保障し、国家権力の干渉を禁ずることを目的とする。さて、宗教上の信仰(、、)とは、絶対的存在(神、造物主、天主、仏、宇宙創造者、自ら存在するもの)の言葉(教義、おしえ、みことのり)を無条件に容認する人間の精神的態度をいう。従って科学(学問)と異なる。学問とは原因(原理ともいう)によって事物を認識し、よって得た智識の体系をいう。信仰は科学的認識とは関係がない。科学的に理由を探究するということは宗教上の信仰(教義)には必要としない。

すべての「存在」には四つの原因がある。無原因の存在はない。いや神以外はない。

内在原因
形相原因
Formal Ursache
何者が(起動)如何なる目的で、何を素材として如何なる形に作り上げたか。
素材原因
Material Ursache
外在原因
起動原因
Bewegende Ursache
目的原因
Zweck Ursache

この世にあるものはすべて「あらしめられてある」ものである。「自らありてあるもの」無原因(無原理)に存在するもの、これを「神」という。宇宙の支配者である。仏教では仏という。(カントのいう Ding an sich)

カントは、ものそれ自体の存在は認めなければならないが、そのものそれ自体は何であるかわからぬというてる。哲学と信仰の境界がそこにあると考えられる。哲学とは窮極原理(原因)の学、第一原理の学、これ以上人間の理性(原理追求の性能)では究明し得ない極元の原理までさかのぼる学をいう。(Philosophieist die Wissennschaft von den letzten Grnden)科学とは、第二次的原因以下の原因に甘んずる学をいう。

信仰は原理追求を必要としない。科学的原理とは関係なきものとする。寧ろ原理を超越する。無条件に絶対的存在の言を真なりと信ずることをいう。人間が或る「信仰」によって心の安らぎを得ようとする社会的精神的文化現象を「宗教」という。

憲法二十条第一項の前段に「信教の自由を保障する」という意味は、この人間の精神的態度を国家権力が干渉しないということを規定したものである。後に述べるような靖国神社国家護持の法律を国家が制定することにより、この意味の信教の自由が保障されない結果をもたらすわけではないから、違憲ではない。







次に、第一項第二段、について

宗教団体とは何か、信教の自由について前段のべたところにより、又一方宗教法人法第二条に規定されている宗教団体の定義からして、又制定さるべき靖国神社法第五条(修正)によって、靖国神社は、神社神道の教義をひろめ、信者(氏子)を教化育成する団体ではないから、宗教法人法にいう「宗教団体」には該当しない。又憲法二十条の宗教団体にも該当しないことが後に述べるように明らかである。故に国から特権を受けても(、、、、、、、、、、)憲法違反ではない。又制定さるべき靖国神社法上、靖国神社は政治上の権力を行使しないから(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)此の点においても違憲の存在ではない。

制定さるべき靖国神社法が、かりに、「靖国神社は、戦没者を公にまつり」それによって、国家がそれらの嘗ての国民に対して負うところの責任を明らかにし、道義をととのえる趣旨の行事を行なうことにしたからとて、特定の教義を普及するいわゆる宗教団体ではないことが明らかである。特定の「神」をまつり、その教をひろめる宗教団体というにはおよそ縁遠い存在である。

日本人が英霊のことを護国の神と称するのは、学問上宗教にいうところの神と同じ意味に用いているのではない。日本人的なものの考え方によれば、普通よりすぐれた人、普通人ではできそうもない犠牲的精神の発露者を上、かみさま(、、、、)という場合が多い。それは決して西洋人のいう宗教上の神ではない。ゴットと訳しては誤解を生ずることに留意すべきである。よって、戦没者などを公にまつるといってもそれは西洋人の云う神をまつり礼拝する(、、、、、、、、、)という観念とは異なる。憲法第二十条第一条第一項の「信教の自由」、「宗教団体」というのは、西洋流に、神を信じ、教義をひろめ、信者を教化育成するという意味の信教の自由を保障する規定にすぎない。その組織体であるところの宗教団体に国が特権を与えてはならないことを規定したにすぎない。神という言葉にとらわれるべきではない。日本人流に「神」といったからとて、それが直ちにすべての憲法の意味する宗教上の神の問題と考え、神様という言葉をタブーとするという態度はアレルギーであって妥当ではない。学問的には差別さるべきである。異なるものを同一に取扱うことは、学問的でない。






憲法第二十条第三項と靖国神社法案の関係について




「国及びその機関は、宗教教育その他のいかなる宗教的活動もしてはならない」と規定している。

これはいわゆる政教分離の原則を表明したものである。国及びその機関が特定の宗教教育(キリスト教教育、仏教教育)などをしては信教の自由にもとるし、弊害が多い。国が又は国の機関が神道(、、)(宗教と考える)と結合して軍国主義的思潮を醸成した経験もあり、この憲法を草案したところのGHQの法律家達がこれを警戒したのも故なしとしない。本項の目的即ち立法精神は正にこの弊害を根絶せんとするにある。それのみならず、西洋においても、特定の教義と国家権力との結合の歴史は幾多のにがい経験をした。近代憲法の多くが、人間の基本権として、「信教の自由」、「政教分離の原則」を規定する所以もここにある。「神のものは神へ、カイゼルのものはカイゼルへ」という政教分離の思想は正しいことだと思う。宗教家の側からも国家権力の側からも肯定されて然るべきであろう







次に、いかなる「宗教的活動」もしてはならない、という規定はいかに把握されるべきであろうか。

これが靖国神社法の制定にあたっては、最も重大な関係を持つ文言である。何となれば、靖国神社の大祭を含めた靖国神社の行なう業務(四章)が、将来どういう形式で続けられるのか、現在の宗教法人靖国神社の神官、その服装、大祓、降神の儀、昇神の儀、玉串奉奠、祝詞の奉上などの行為、更には神殿、神礼授与所、及び賽銭箱、鳥居の設置など、その施設設備すべて、神社神道の教義を持つ神社と同じ形式の行為―――儀式―――をし、設備を持つことから、それをそのまま、制定さるべき靖国神社法で許すことにした場合は、本項で禁ずる宗教的活動を国の機関が行なうことになり、それを許す靖国神社法は違憲と主張されるからである。それにも不拘私は、その意見には賛成しない。

私見を述べる。

憲法にいう「宗教的活動」徒は、宗教の教義をひろめ、信者を教化育成し絶対的存在としての神に礼拝し、宗教上の儀式を行なう等の人又は組織の行為の一切をいうものと解釈される。この中、「宗教上の儀式」を行なうという点が靖国神社に関する憲法論争上の問題になるわけである。靖国神社は現在これをやっている。その靖国神社を国家が護持することは憲法違反の疑が濃厚で、とうていこれを合憲だと強弁できないというのが法制局その他の意見のようである。そしてそれに影響されたのが憲法調査会に提示された靖国神社法案に流れている憲法理論のように思われる。しかし私は敢えてその意見は正しくない、違う、と思う。

そもそも靖国神社はその創建の由来にかんがみ、国のために一身を捧げた人々の霊をまつる。それを顕彰し、国の国民に対する責任をいささか果たし、道義の基本と為すところの報恩感謝の表明をしようというのであり、この考えは提示された靖国神社法案でも変りはない。そしてこのことに異論をとなえる人は、日本国民として極めて稀な人だと私は考える。この国民感情を生かすような憲法解釈は可能だと私は考える。

総じて宗教的儀式を挙行することがすべて憲法二十条第三項の宗教的活動になるのであるという意見に、私は反対の意見を持つのである。靖国神社が将来も、即ち、靖国神社法制定後も、これまでの形式の儀式をつづけて差支えない、憲法違反ではないと考えるのである。







宗教的儀式的活動というのは、宗教上の教義をひろめ、信者の教化育成と密接不可分な、否儀式を敬虔に挙行することによって特定の教義の普及、信者の獲得に有効ならしめる為めの儀式は、国家または国家機関が行なうのでは政教分離の原則に反するから、憲法はその意味で儀式を行うことを宗教活動とし、それを国家機関が権力を以てやることを禁じているものと解すべきである。信仰は内心の問題で権力の左右を許さぬ。良心の自由は人権の最も大切なものとして之を保障するというのが、第三章の国民の権利義務の基本的立法精神である。靖国神社が前に述べた宗教的儀式を行うのは、神道教義をひろめ、神道の信者を獲得するためにやるのではなく、戦没者等の霊を慰めその遺徳をたたえるという国民大多数の報恩感謝の念の表明を、敬虔ならしめ、厳粛ならしめるに役立つ、創建以来の定着された慣行を踏襲しているに過ぎない。善良なる国民的習俗というべく、憲法が国又は国の機関が行うことを禁ずるところの「宗教活動」とは縁の切れている別の問題と考える。

西洋やアメリカなどで国又は国の機関が或る時に行う宗教的儀式も亦、これと同じ意味である。大統領就任式における宣誓式は、キリスト教的儀式と見られるが、学理的には憲法のいう宗教的活動とは無縁な政治的慣習とみるのが、現在ではすなおな理解であろう。これもアメリカ憲法に規定された政教分離の原則の違反だなどとはいわれないのも右の理由によるものである。

神式で行う靖国神社の儀式を、憲法二十条第三項にいう宗教教育や宗教的活動禁止に違反するという見解は、政教分離の原則ということの憲法的目的論的意味、その立法精神を正確にとらえていない。政教分離は、政治権力と特定の教義とが一体となって、他の教義に不利益を与え他の宗教を圧迫したりすることが、信教の自由を破壊するということから打ちたてられた憲法上の制度であることは、憲法学説上の定説というてよいであろう。

新宗連の反対があるやに聞くが、それらの方々に憲法にいうところの宗教の意味、憲法にいうところの宗教上の儀式行事、宗教的活動ということの意味、憲法二十条の立法精神、目的論的解釈について御一考を煩わし度いのである。

靖国神社の諸儀式や諸設備が、右に述べた意味での政教分離の原則を紛こうとするというのは憲法学上の論理解釈から見た場合には、正確でないと私は考えるものである。







宗教的儀式行事のすべてが憲法第二十条第三項によって「宗教的活動」として禁止されている憲法違反の行為だという論者は、次の例をどう理解して違憲でないとするのであろうか。

例  貞明皇后の御大葬、幣原、尾崎、松平氏等の院葬。
 更に四十年一月三十一日の津地裁判決
参照
昭和三十九年七月三十一日  衆議院社会労働委員会
林法制局長官の「習俗」答弁(長谷川保委員の質問に対し)
役所の秋葉神社の御札、火よけ。
註 長谷川保委員 国の機関あるいは公共団体において、建築物あるいは橋をつくる、鉄道を敷く、こういうようなときはやはり神道の儀式をもっておはらいその他のことをする。これに国の金あるいは公共の金が出るとすれば、これは明らかに憲法違反だと思う。

林修三内閣法政局長官

クリスマス・ツリーは、日本においてすでに宗教的色彩を失って一種の習俗的行事であるというふうになっているじゃないか。あれを見て直ちにだれも宗教的感じを抱かないじゃないか。起工式あるいは竣工式についてもすでに日本のいわゆる古来の習俗というようなことになっておるじゃないか。仏教信者がおはらいをするときにもああいうものを使う、あるいは竣工式、起工式にああいう式をやる、あるいは役所のたとえば火よけに秋葉神社のお札を持ってくるというのは、これは必ずしもその人が神道であるということに結びつかないで、日本においてはすでに習俗的なものになっている。

上に述べた例に見られる宗教的活動らしく見える儀式は一時的であり、関係者も限局されているからというて、ことがらの本質は、靖国神社の行なう宗教的儀式と異るものではない。







之を要するに靖国神社の神道的儀式も亦、神道信者でない人々の神式による結婚式と同様、人の行為を厳粛ならしめる手段であり、形式であり、慣行であり、習俗であって、憲法にいうところの宗教的活動とは関係のない行為とするのが常識にも合致する。妥当な憲法解釈であると思う。

註 宮沢俊義氏の見解とは異なる。
即ち宮沢氏は、政教分離の原則は西洋でもアメリカでも不徹底だといっているが、そうではなく、慣行上の宗教らしい形式の儀式は、政教分離の原則とは遮断された政治的(大統領就任式)或は国民的(靖国神社)慣習であると理解するのが正しいと思う。





第二十条第二項と靖国神社との関係について




憲法第二十条第二項は、何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを「強制」されない。

この項では、大して問題になる事はないが、念のため言うならば、宗教上の行為其の他に参加することを強制されないという意味は、宗教上の教義をひろめ、信者を教化育成したりすることと密接な儀式行事(、、、、、、、)に、その意に反して、国家権力を以て強制することを禁ずる趣旨である。それは当然のことである。制定さるべき靖国神社法で、問題になるとすれば、自衛隊の儀仗参拝である。若し自衛隊員なるが故に儀仗参拝を強制された場合、この第二項に違反することになるか否かが問題となるわけである。それも私は違反ではないと思う。

靖國神社参拝は憲法が禁止する宗教上の行為(、、、、、、)ではない。宗教上の儀式への参加(、、、、、、、、、、)ではない。第三項の解釈で述べた如く、それは国の安全を直接守るという職域に殉じた同僚の霊を尊崇する人間の心情を厳粛に表明する国家的国民的慣行であって、憲法の禁止するところの宗教上の信条の告白(、、、、、)―――礼拝(厳格な意味での)ではないからである。

八十九条については、靖国神社はすでに憲法上の意義においての宗教団体でもなく、その行う儀式も憲法解釈論上は宗教上の儀式ではない。従って、かかる意味内容を制定さるべき法律で与えられるところの靖国神社に、国が公金を支出することは違憲ではない。




結     語




靖国神社を右に述べた趣旨で、国家が之を護持することは、そして公金を支出することは、軍国主義を育成し、戦争を誘発する虞があるなどと考えるのは愚の骨頂である。

遺族ほど戦争の痛手を身にしみて感得している者はない。その遺族を初め心ある道義的国民が、戦没者等の霊を慰める為の靖国神社、国の国民に対する責任を国自らが先ず明らかにし、国民道義確立の第一歩としようとする国民多数の意図を、軍国主義を育成する意図があるように思ったり、口にしたりすることは、大間違いである。平和を念願すればこそ、平和の為めと信じて国に殉じた護国の英霊をまつり、戦没者等の志の如く万世の為めに大平を開こうというのが、国民多数の心持である。

憲法の保障する信教の自由、政教分離の原則は、その制度の経過から見ても、特に現行憲法草案を起草した占領軍の意図するところが、ポツダム宣言の軍国主義の払拭という文言によって強く影響されたことも明らかである。第二次大戦の結果の所産であるところの日本国憲法の解釈として、特に憲法第二十条の解釈について強く念頭に置くべきことである。日本国民は靖国神社国家護持こそ、軍国主義を逆に戒めるために、平和主義日本国の処置としてとるべき要務であると考え、正しい憲法解釈による靖国神社法の制定を念願するわけである。(以下省略)






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