英霊は虫ケラのように死んだのか



朝日新聞三月十一日の夕刊に「小野田さんをどう迎える」と題して、松本清張(作家)、結城昌治(作家)、見田宗介(東大教授)三氏の座談が掲載された。紙面の都合でその全文を掲せることは避けるが、座談会のしめくくりとして、「小野田さんは救出された、われわれは小野田さんをどう迎えればいいのか。それが一番大事だと思う」という問題提起に対し、三者はこう語っている。




【結城】その通りだ。今の空気では、雪男かパンダを発見したようなカラ騒ぎか、英雄扱いになりかねないが、それでは、戦争というものを見誤まる結果になる。小野田さんだけが英雄になり、戦争で虫ケラのように死んでいった無数の人びとから目をそらされることになりかねない。

【見田】問題は、小野田さんをこういう状況にした直属上官や軍の幹部、その中にはいまでも権力をにぎっている人たちもいるのだが、その人たちの小野田さんに対する責任と、小野田さんとその部下たちがフィリピンの人たちを殺している責任と二つあると思う。小野田さんはたまたま生き残ったが、小野田さんの部隊やそのほかの部隊の何十万人何百万人が虫ケラのように死んでいる。(後略)

【松本】戦争で虫ケラのように死んだ大勢の人のことを考えるなら、小野田さんを迎える周囲が十分考え、英雄扱いを自粛しなければならないと思う。



われわれは、上記三者の意見について多くの異論を持つが、ここで取り上げたいのは、三者が共通して語った「戦没者虫ケラ論」である。

われわれは、虫ケラのように死んで行ったという表現に次の二つのことを感ずる、一つは、生命なき将棋の駒を使うように、軍の幹部が兵隊を無闇やたらに死地に投じたという感じ、もう一つは、死ぬことをいやがる兵隊を無理やり死線に追いやったという感じである。おそらく三者には、こうした考察が基底にあったから虫ケラのようにと表現したに違いない。










だが果して、戦争で死んで行った多くの戦友は、彼らの考える如く、牛馬のようにかり立てられて嫌々ながら死んで行ったのだろうか。彼らの考えは、多分に今様流の観念論であり、二つの点で大きな誤りがある。

その一つは、兵隊の死を上官と部下、特に高級幹部と部下という相対の中でのみ捉え、国家と国民(民族とその一員)という立場で捉えていないことである。「一寸の虫にも五分の魂」という言葉があるが、兵隊(下級将校を含む)にも国民としての魂はあった。国を思い、国のために生命をすてても戦わねばならないという精神―意志―があった。ただ命令だけでこきつかわれて戦ったのなら、あの大戦争はあそこまで戦い得なかったであろう。

第二の誤りは、死生観の問題である。彼らは口に生命の尊重を叫ぶが、ただ長く生きることのみが生命尊重と考えているようである。

だが、人間には、特に日本民族には、特に男性には、死ぬべき時に死ぬことを尊ぶ死生観がある。

戦争当時われわれは、国家安泰のために一つの捨石たらんことを甘んじて決意していた。人生二十歳で散ろうとも、その死が無名の死であろうとも、悠久の大義に生きることに生涯の生き甲斐を感じ、全身全霊を傾けて戦った。不幸にして多くの戦友が死んだが、その死を、ただ人間本能の「生への執着」のみで推測したり、「被害者意識」で観ることは誤りである。

これを要するに、一見、瑣末な水泡が消える如く死んで行った兵隊にも、立派な魂があったのだ。その尊い意志を忘却して、魂の無い虫ケラの死と同一視することは言語道断である。おそらく彼らは、苛烈な戦争の体験を持たないであろう。体験なき者の机上の空論は、百害あって一利もない。われわれは、かかる口舌の徒を選んで座談会を組んだ朝日新聞社の不見識をも見逃すわけにはゆかない。

最後に付言するが、われわれは、彼らが述べるような不徳の高級軍人がいたことを否定するものではない。だが、それらの人々を責めることと、「兵隊の魂」の問題は別の次元の問題である。


(昭和四十九年三月)








表紙目次 次ページ






戦友連の表紙へ