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全国戦友会連合会とは、全国の戦友会が
「靖國神社を国の手で祀ってもらいたい」という
ただ一つの願いのために結集した団体です。
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昭和12年の支那事変から昭和20年の終戦まで、長い戦争の時代がつづいた。そして数百万の日本男児が軍務に服し、苛烈な戦場で
しかし、その健闘も空しく戦いは敗れ、これら若者を迎えた祖国は、焼けただれた廃墟と、明日の生活にも事欠く困窮の社会であった。
若者たちは、戦場でむしばまれた身体をいやす暇もなく、銃を鍬に替え、ペンに取り替えて働かざるを得なかった。
それから10年・・・・・・・・・・
無我夢中で働いた甲斐あって、世の中も幾分落ちつき、自分の生活にも一応のメドが立ってくると、かつて若者たちは申し合わせたように、全国各地で「戦友会」を持つようになった。
戦後、日本に幾つの戦友会が生まれたか詳らかではない。しかし恐らく、大小様々な戦友会が1,000以上出来たことは間違いない。これら戦友会は概括的に言って、昭和30年代までが揺籃期、40〜50年代が全盛期、そして60年代以降は次第に衰微し、やがては無くなってしまうことだろう。
戦友会は申すまでもなく、かつて同じ部隊で起居を共にした戦友同士の集まりである。同じ釜の飯を食い、共に寝、共にくらすということは、とりもなおさず人間が裸になって付き合うことであり、この間に結ばれるお互いの友情は、一切の利害得失を超越して清純無垢である。
ましてや、同じ戦場で苦楽を共にして戦い抜いた戦友には、生死の極限で体験した友愛の絆がある。これがいわゆる「戦友愛」であり、従って「戦友愛」は、激烈な戦闘体験を持つ部隊ほど強固と言うことが出来る。
「戦友愛」は生き残った戦友同士のものとは限らない。戦場では、この「戦友愛」に結ばれていた掛け替えのない戦友が多く死んで行った。それどころか、死んだ戦友の「戦友愛」に救われて、生き残り得た体験を持つ者も少なくない。従って「戦友愛」は、生き残った戦友同士以上に、死んで行った戦友への思いが強いのである。
これを要するに、戦友会は「戦友愛」によって結束し、行動している団体である。戦友の中にはありとあらゆる職業の人がおり、又その思想も宗教もいろいろである。しかし事「戦友会」となると、これらの人々が一切を没却して純粋な「戦友愛」に帰一するところに、戦友会の得も言われぬ妙がある。
それにしても、「戦友会」は確かに、日本が体験した大戦争の「落し子」 である。従ってわれわれは、二度と再び、「戦友会」が今日のように隆盛を極める時代の来ることを願わない。「戦友会」は日本の歴史の中で、「昭和時代だけの特異な存在」であってもらいたい。
しかしそれだけに、戦友会のようにお互いが純粋に付き合える会が、未来永劫消え去ることに一抹の寂しさを禁じ得ない。
戦友会とは・・・(2)
戦友会―――それは戦場で共に戦った戦友の集まりである。
明日の生命も知れない毎日を、勝ち抜くために、生き抜くために、戦友は互いに助け合い、かばい合って戦った。そこには一片の利害打算もなく、純真赤裸々な人間の友愛だけがあった。
従って戦友会は、言い換えれば「至純な友情」―戦友愛―によって結ばれた生き残り戦友の集まりなのである。
しかし、ここで見落としてならないのは、不幸にして戦陣に斃れた戦友のことである。戦友会は形の上では行き残り戦友の集いであっても、その生き残り戦友の心の中には、終生断ち切れない戦没戦友との友愛の絆が生きている。
戦友会と靖國神社のつながりの根本はここにある。戦没戦友は皆、靖國神社に祀られておられるからである。われわれが結束して「戦友連」を結成し、国民の先頭に立って靖國神社国家祭祀運動に挺進しようと決意したのも、又、三十年
靖國神社とは・・・
靖國神社は、日本の独立を守り国民の平和を維持するために
ペリーは日本に白旗を差し出し、その意味を説明した。「日本は米国の要求に応じよ。拒否すれば戦闘だ。日本が負けることは決まっている。その時はこの白旗を掲げよ。」と。
これより先、隣の清国(現在の中国大陸にあった)は英国との戦い(阿片戦争、1842年)に敗れ、列強の好餌となっていた。何としても清国の二の舞は避けねばならない。そんためには一刻も早く、欧米列強のような近代国家を作り上げなければならない。
血の滲むような日本の辛苦が始まった。そしてその過程において、多くの国民が国難に臨んで死んで逝った。
靖國神社は明治2年(1869年)に創建されたが、幕末の争乱よりこの方大東亜戦争に到るまで、実に2,466,344柱(平成13年現在)の護国の英霊が祀られている。
(注) 靖國神社に関する詳しい事は、靖國神社のホームページ
http://www.yasukuni.or.jp/をご覧ください。
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