靖国神社に(おも)






「何故今になって国家護持なのか」、「何故今公式参拝なのか」という字句を新聞紙上に散見し、又若者の疑念としての言葉を耳にすることが度々ある。

抑々靖国神社は招魂社と称し奉る神社として、明治二年に創立されて以来、国立であり国家護持であり勿論公式参拝が行われて来たものである。それは、当然そうあらねばならない人たちの霊が祀られているからであると共に、同神社が集団的・公的な特性を持つわが国古来固有の神社神道宗教によるものであるからである。そして明治憲法にも信教の自由の定めはあったのであるが、東アジア文化の多神教信仰の我が民族に於ては、唯一多神教信仰者のうちの極く限られた一部の人を除いて、この問題に関し、(いささ)かの疑義もさしはさまれなかったのである。戦後に於ても、キリスト教信者である大平首相が、伊勢神宮や靖国神社へ参拝しておられる事実を以てしても、これを窺い知ることが出来る。

昭和二十年敗戦となって連合軍に占領せられ、他の寺社と一様に宗教法人とせられ、民間の一神社となり、国家護持、公式参拝は止められた。被占領国の止むを得ざる仕儀ではあった。斯くして神社神道宗教(以下神社宗教と称す)の固有の性格・理念が無視せられ、他宗教の、且つ占領国の理念によって一律に律せられた処に疑義が生じ、思想の混乱が始まったのである。靖国神社問題は我が国の昔からの神社宗教特有の概念・理念によって律せられなければならないのである。






昭和二十六年講和条約が成立し国権が日本に帰ってきたとき、遺族たちに依って国家護持への復帰が図られたが、当時は未だ進駐軍の影響力が大きく、到底その許可は得られないものと考えられ、さしたる運動も行われなかった。

其の後、遺族や戦友達によって地道な運動が続けられ、国家護持を願う人々の輪は年と共に大きくなり、昭和四十年代半ば頃には、この問題が『靖国神社法案』として国会に何回も提出される迄に至った。然し野党の反対やキリスト教団体を始めとする他の宗教団体の反発が大きく、衆議院は通過したが参議院は通過しなかった。(キリスト教国の占領下、キリスト教団体の力は大きくなっていた。)これを見た国家護持を願う人々の嘆きは大きく、せめて公然たる公式参拝なりともとの悲願となり、これに向って全国的に動き出した。尤も、これ迄の間にも天皇陛下や総理大臣の参拝は、進駐軍の意向を伺って時々行われていたのであるが、それは国民一般にも知らされず、ひっそりとした参拝であって、一部の者の反論にも戦々恐々として直ちに取り止めねばならないような(三木首相時代)、凡そ氏子総代的(国民総代的)な公然堂々たる公的参拝ではなかったのである。ここに於て、遺族会や戦友達の団体をはじめ、四十六の各種団体によって『英霊にこたえる会』が結成され、強力な運動が展開された。これを受けて、多くの各県会でも「公式参拝賛成決議」がなされ、又、鈴木・大平・中曽根三代に亘る首相並びに百余名の国会議員有志が集団で参拝するなど、公式参拝に努力せられた。そして昨年(昭和六十年)八月、中曽根首相は、『靖国神社公式参拝懇談会』の答申を得るなどして、国民に広く告知したる処の公的な国民総代的公式参拝に踏み切ったのである。国家の為すべき道義として遅きに失した観はあるが、まずはあるべき姿とせられた。

一方ここに至りても尚反対者達は、他国の協力を得るなどして、猛烈な反対運動を続けているのである。

凡そ神社の問題を論ずるには『無我誠心』を以て当るべきものである。然るに是を、激しい我欲のもと、政治勢力争いや宗教勢力争いの具に供せんとしているが如くに感じられる向きの論もあるが、こうした論に価値は見出せず、従ってこうした論を聞いて慨嘆している人々は多い。

そして又、東京裁判や占領政策に翻弄された戦後風潮の中には、大東亜戦争の遠因は勿論、戦争の本質そのものを忘れ勝ちな思考が多い。余りにも深甚にして峻厳な因果と現実の上に立つその本質ではある。この遠因や本質に思いを致すことの深ければ、英霊に対する感謝報恩・慰霊顕彰の念もまた一入(ひとしお)であろうと思うと共に、靖国神社国家護持・公式参拝問題についても、政治・宗教・思想の違いを越えた高次元の思考が生まれるもののように思う。






表紙目次 次ページ