次に、宗教の自由について私の存念を述べて見たいと思う。
抑々宗教の自由・信教の自由が重視せられたる所以の根源は、宗教が、信仰対象や性格・理念の上に、それぞれにそれぞれの特性を有するからである。そしてそれぞれの宗教の特性を、お互いに容認しあうことなくしては、宗教の自由も信教の自由もなく、宗教戦争も絶えないであろう。憲法に信教の自由・政教分離が定められることになるのも、宗教に特性が存するが故なのである。神社宗教は前にも述べたように、他に見られない、『現世的・集団的・道義的観念に立脚している地域集団宗教』という特別な性質を有するものであるから、他の宗教に比し、殊更に広く宗教の自由が認められなければならないものであり、古来そうして来たものであった。然るに信教の自由を楯に取って、逆に神社宗教の特性や自由や、更に習慣的なもの迄も束縛するが如き言論が多いが、これ等は到底容認し得ざる処であり、誠に遺憾なことである。こうした論理には、さきに述べた日本人の宗教文化に立つような度量は望み得べくもないのであろうか。
公式参拝は勿論、公的(国)護持も当然であると考えることが出来る前項の如き神社宗教の集団的・公的特性は、憲法の以前より、日本固有の宗教的・道義的な『のり』として存在して来たものである。然るに後から定めた憲法(マッカーサー憲法)によって、この『のり』(特性)を破砕し、他の宗教の理念を以て、一律に「公」との完全な分離を押しつけんとする処にこそ無理があり、不当性・矛盾性が生ずるのである。即ち「憲法違反」であると称して、一宗教の特性・自由を圧迫・束縛するという基本的問題の”違憲状態”を現出せしめているのである。これでは公平を欠く憲法であって、拠るべき価値は認められないであろう。こうした矛盾性・不当性を解消する為に、
靖国神社のみならず、全国の各神社を護持信奉している決定的大多数の人々によって、我が民族古来固有の立派な神社宗教の特性と自由を守り通していかなければならないと思う。この宗教の特性に対する他からのとやこうの容喙を許してはならないと思う。
神社宗教がこの特性を堅持・実行しても、多神教の我が民族においては、唯一神教民族の如くにはならず、昔ながらの神仏併信混淆の自由奔放・自在無碍の状態が続くのみで、決して他宗教を抑圧し是に干渉する等の憲法の精神に反するような状態は起こらないと信ずる。明治初期の政府の神仏分離政策や、それに伴って発生した廃仏毀釈運動でも、前にも一言触れたように、一般国民には受け入れられず、一時的・局部的に終わってしまって、何時の間にやら立ち消えとなり、全国的には殆ど影響が無かったのである。これは八百萬神的多神教民族の寛容性と賢明さによるものであろう。そして又、唯一神教国のように、信教の争いの悲惨な状態は現出すべくもなく、唯一神教国的な憂慮は杞憂であると思う。
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