次に『公』(国)の守るべき道義について述べてみようと思う。
抑々道義は人間集団の中で自然発生的に出来上った『のり』であって、個人間や家族間の私的なものから、地域集団(国家も含む)を単位とする全体的・公的なものまでその範囲は広いが、人間集団に欠くべからざるものであることは言うに及ばざる処である。
そして、勿論世の変遷と共に変容はすれども、その根基は変わることなく厳存し続けてゆくものである。
さて、戦没者たちは戦争の本質を
『公』が公務に殉じた人達の遺業を顕彰し、追悼・慰霊の宗教行事を為すことが政教分離に反する違憲行為であるならば、『公』は如何にして道義を守るべきか。こうした道義に反する規定を有する憲法こそ不当であり、拠らしむべきものではない。道義は憲法・法規以前のものであって是等に優先し、憲法・法規は道義や習慣に基づいて定められるべき筈のものと考える。即ち、法規によって道義が律せられるのではなく、道義によって法規を律すべきであろう。そしてここにも政教分離条項の検討の必要性が生ずると思われるのである。
惟うに『公』の形の何れであるかを問わず、「公」が「公」の為に尽くした人達に報ゆる道(物心両面)を怠るならば、「公」は「民」にうとんぜられ、「民」の「公」を思う心は勿論、「公」の為に尽くすことなど望み得べくもなく、個と全体の調和を知らぬ我利我利亡者が横行する社会となり、公徳地に落ちて、遂には社会全体(公意識)の発展も期せられなくなるであろう。既に日本は、世界青年意識調査にも現れているように、世界各国にその例を見ない程に全体意識(公意識)が欠如して、
何れにしても、『公』(国)をして道義を守らしむることが出来得るや否やは、地域集団構成員(国民)一人一人の心の持ちようにかかっていることは申すに及ばざる処である。されば、こうした道義のことのみならず、神社宗教の特性や第一項の終わりに述べてあるような事柄に、深く惟いを致す人々の一人でも多からんことを祈念するや切なるものがある。
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