公と国と政治






世間の論旨を観るに、『公』や、『国家』というものと『政治』というものとを同義に置き、混同して考えているのではなかろうかと受け取られる説の多いことに気づく。

『公』とは、あらゆる組織体の人間集団及びそれらの統制機関の総称である。
『国(國)』とは、公の中にある一つの組織体であって、囗=国土と、旦=国民と、戈=統制(統治)機関との総称である。
『政治』とは、国・県などの統治機関の行為であって、公や国と同義に置いたり、混同して考えたりしては、思考上に混乱を生ずる。

即ち、「国と宗教」並びに「公と宗教」の分離を求めることは、その「構成員」たる民も又宗教との分離を要求せられることになる訳である。 これは極めて不当なことであって、ここに混乱が生ずるのである。かかるが故に、『政教分離』が『国教分離』や『公教分離』を言うものではないことに刮目する必要がある。又、靖国神社国家護持や公式参拝も、『政治護持』や『政治参拝』のように理解されてはならないのである。憲法に『政教分離』が定められた目的・精神の存する処も、実にこの政治的護持や政治的参拝の弊害を防ぐ処にあるのであって、『国という単位の公』による護持や参拝を問題にしているのではないと思考する。尚又、憲法の字句の中にさえも『国及びその機関』を『政治』という行為と混同しているような処があることに留意しなければならないと思う。

そして又、勿論のこと乍ら、政治は国の為にあるのであって、政治の為に国があるのではない。従って、政治と宗教間の問題の為に、『主体』たる国の為すべき道義行為が妨げられるような形態の憲法には拠らしむべきではないと思考する。ここにもこの問題に関する憲法の検討の必要性が生ずるのである。






ある論説に、公務員が、その作業の中で神社の業務の手助けをしたことについて、政教分離を盾に強く批難している向きがあった。勿論その手助けが分度を越した宗教活動に及ぶものであるならば、批難を受くるも又当然のことであろう。然し、公務員がその本来の職務たる『公』の仕事の中に於て、作業上に神社の庶務との関連があったとしても、公務を処理し『公』に奉仕する者として(政治に奉仕する者に非ず)当然の作業であるのであって、批判を受くべきものではないと思う。殊に神社宗教の集団的公的特性や靖国神社の特殊性を考慮に入れれば尚更である。そして又こうしたことは、事故・災害時等の場合の一般の公的慰霊祭に於ける公務員の作業とても同様であろう。

転変地変・火災・事故等は勿論、その地域に一旦緩急あれば、一般市民の先頭に立ち率先義勇公に奉ずるは、公務員の務めであるように、公務員は公僕ともいわれ、広く公務に当るものであって、政治業務のみを処理する為にあるものではないことに留意しなければならないと思う。即ち『政務員』『政僕』というような狭義のものではなく、『公務員』『公僕』という広義のものなのである。

要するに、『公』や『国家』と『政治』とは混同してはならない差異のあるものであって、国家護持・公式参拝を直ちに政治の関与と考えるのは短絡的に過ぎると思う。そして靖国神社問題はもっと高い道義的次元に立って考えるべきであろう。






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