要するに






以上各項の如く色々と思考を進めて来ると、靖国神社国家護持・公式参拝は当然為されて然るべきものであり、これに反対する理由は何処にも見当らないのである。そして只、政教一致により生ずる弊害の防除に注意すればよいのである。是が為には、政治予算と神社費(護持費祭祀費等)との判別を、寄金の起点より厳ならしむればよいと思うのである。そしてその手段方法はいくらでもあると思う。これについて『国会』の中で『政治会』を離れた『公会』に於て、最善の方法を検討されることを切に祈念して止まない処である。このことは、一人私のみならず『英霊にこたえる会』の諸兄を始め多くの国民の方々も、同じ(おも)いであろうと信ずるものである。

尚、『政治』というものが、代表者を以てするなどして、公式参拝を行うことがあった場合、往復の交通費や玉串料などの賽銭的なものなどは右の論外であって、当然参拝者個々(この場合は『政治』)の負うべき費用であると思う。即ちこれは参拝するものの真心の表現手段であるからである。決して宗教活動などには当らないものであると思う。(ちなみ)に、玉串は穢れなき真心を捧げて地域の平穏を神に祈る心の表現である。

色々と述べて来たが、要するに『神社宗教靖国神社』と『国という地域集団=公』との全面的分離は、神社宗教の特性と靖国神社の特殊性を考え、以て為すべからざることであると思考されるのである。






戦後、東京裁判の影響や、価値観の多様化や、思想の混乱から、我が国固有の『美』さえも捨て去られようとしている。靖国神社の問題も、そうした風潮に翻弄されているようである。

余談(なが)ら日本文化の国際化を目指す過程に於ても、徒らに外つ国(とつくに)に迎合するに非ずして、よきをとりあしきをすてると共に、悪しきを採らず良きを残し、日本固有の美を堅持して是を国際間にしろしめしつつ進展するのが、真の国際化ではなかろうかと思う。

(すべから)く、思考の原点を本来の姿に立返らしめ、混乱から脱却すべき(とき)ではなかろうか。






前ページ 表紙目次 次ページ