二、大東亜戦争の原因と経過

(五)日米交渉



昭和十三年、白人支配の鎖を解き放ち、アジア民族のアジアを建設するという日本政府の大東亜新秩序宣言は、米国をはじめ欧州列強を痛く刺激し、対日警戒と反発を強めた。

明けて十四年夏、アメリカからの日米通商航海条約破棄は、其の対日感情を確定的にした。そこで日本は、対米経済依存を脱却して自存の方策を模索するに至り、南方の重要資源に目を向けるようになった。


ホワイトハウスでは、この時対日全面禁輸が検討されたが、米国の軍備が整わず、世論もまだ熟していなかったので、過早に日本を戦争に踏み込ませるのは得策ではないという判断で見送られたことが、戦後明らかになった。然しこの時既にアメリカが対日戦争を決意していたことに就いては、日本の誰も窺い知ることが出来なかった。

その頃、米のドラウト神父等によって日米諒解案なるものが非公式に持ち込まれた。これを要約すると、満州国は承認する。日本の必要な物資は平和手段で入手させる。その代り大陸本土から撤兵するというもので、今までの交渉経過から見てウソのような穏やかなもので、その上、これについてルーズベルトと近衛首相とのホノルル会談まで打診してきた。日本にとっての問題は、既に多くの英霊を靖国神社に送っており、泥沼とはいいながらも戦闘で勝っている支那派遣軍に、どういうような名目で名誉ある撤退をさせるかにあった。無名目の撤兵をすれば国民は激昂し、軍の強硬派は反乱を起こし、国内は収拾のつかない大混乱になることは火を見るよりも明らかである。

実際には、ルーズベルトはホノルル会談など全く考えておらず、アメリカの戦備を整える為の時間稼ぎに過ぎなかったことがあとで分り、日本はえらい苦汁を飲まされたのである。


ところがここで、欧州の戦況に大きな変化が起きて、日本の国策を迷わせることになった。十四年九月大戦の火蓋を切ったドイツは、翌十五年春になって俄然活発な動きを始め、僅か一ヶ月の電撃作戦で英軍をダンケルクからドーバー海峡に追い落とし、フランスを席捲してパリーを占領し、六月十七日にフランスは降伏したのである。しかも、その余勢を駆ってイギリス本土に上陸する気配すら見せた。実際には、独軍には上陸作戦をする船舶の用意もなく、作戦準備も出来ていなかったのだが、そのような眩惑を起こしても不自然でない程、電撃作戦は見事なものであった。

日本は朝野を挙げてドイツの戦果に興奮し、新聞も米英何するものぞとの過激な論調を掲げ、親独派が急速に勢いを増して、「バスに乗り遅れるな」ということが、合言葉のように叫ばれるようになった。勿論欧州の戦況に迷わされる軽率を戒める達見の人々もおったが、時の勢いに打ち消されてしまった。これが大きな誤りであったということは、今なら誰にでも言える結果論であり、これがその時代背景である。これは教訓にこそなれ、是非善悪論を以て非難することは出来ない。

「衆愚」という言葉があるように、大衆は目先のことしか考えない。まして、今のように情報が氾濫している時代ではなく、米国の軍備や国力について何一つ知らなかった時代に、対米強硬路線の世論が国内を風靡したことを譏る人があれば、この情報化時代に、国家財政の行く末も考えず消費税に反対したり、多様化した外交や国の安全を度外視した政党に票を投ずる選挙民の低劣な視野に猛省を促すべきである。


時の勢いは、九月の北部仏印進駐に続く、日独伊三国同盟条約締結にまで進み、更に翌年春、日ソ中立条約が調印された。松岡外相の腹は、仏印進駐と三国同盟で威を張り、対米交渉の切り札に利用し、取引の王手にするつもりだったようである。また、日ソ中立条約は、日本がニ面作戦を避ける目的と共に、連合軍に対して、ドイツに呼応してソ連の尻を突かないという安心感を与える意図もあった。それは後年のレーガン大統領のソ連に対する力の政策に類似したものがある。強大な経済力と軍事力を背景にしたレーガンの強硬策は見事に成功して、ゴルバチョフはペレストロイカの道を選ばざるを得なくなり、ソビエト帝国崩壊の端緒となったが、貧乏国日本が幾ら空威張りしてみたところで底は見え透いており、経済大国アメリカに対して何の利目もないどころか、却ってアメリカの世論を反発硬化させるばかりであった。今から見れば滑稽とも思える現象だが当時はそれ程アメリカの国力に関する情報が不足していた時代だった。しかも、その時点では日本の外交暗号が解読されていて、こちらの手の内がアメリカに筒抜けになっていたのも一つの負面となった。


対米交渉の前途楽観を許さずと判断した日本は、若しアメリカからの物資が途絶えても自存出来るように、南部仏印に軍を進めて南方資源獲得の基地とし和戦両様の構えを取った。この時を待っていたとばかりにアメリカは、ただちに在米日本資産凍結を公布し、九月には航空ガソリン対日全面禁輸に踏み切り、英・蘭・比もこれに倣って、A、B、C、D包囲網を構成して、日本の息の根を止める戦略に出た。


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