反対論に思う



靖国神社を国家で護持することに反対の意見があることは、皆様がご存知の通りです。私共は反対意見に対しても単に感情的反撥を試るだけでなく、謙虚にその意見にも耳を傾け、よくその内容を吟味検討し、注意すべきことは心に留め、その誤りは説得するの態度を失ってはならないと自戒しております。

反対意見を大別しますと、

  1. 信教の自由・或は宗教と国家との関係について憲法違反である。
  2. 軍国主義の復活・戦争につながる。

以上の二点に要約出来ると存じますが、ここで特に留意したいことは、その昔、全面講和か多数講和かの時代から、軍国主義の復活・戦争につながるとか、憲法違反とかの反対理由が、まことに安易に使用されることであります。憲法違反とか、軍国主義の復活とかの理由を並べれば、一般には如何にももっともらしく聞き取られると思うからでしょうが、このような単純な論議こそ、もっとも戒むべきことではないでしょうか。これはまた単純な合憲論に於ても然りであります。

私共は憲法学者でもなく、専門家でもありませんので、自ら合憲論・違憲論をなす資格はありませんが、それぞれ専門家の学説・意見などを熟読玩味すれば、その何れが納得し得る説であるかと言うことは、特定のイデオロギーを前提とせず、また為にせんとする如き野心を持たぬ立場からすれば、自ら判然とする事柄ではないかと信じます。






憲法違反であるとする説について




第一の憲法違反であるとする説について

宗教の定義については、現在まで学会に於ても一定した定義がないぐらいに広い範囲のものであるとのことであり、憲法に示される宗教をどの範囲までと解釈するかで変ってくることだと存じます。現憲法が占領憲法か、自主憲法かには関係なく、少なくとも先進諸国の憲法が参考にされておることは事実であるとすれば、この宗教と国家との関係についての規定の解釈も、それぞれの国の考え方なりやり方なりは大いに参考にすべきと思います。

すなわち冠婚葬祭等、その国の風俗習慣に属する儀式に至るまで、宗教として憲法の規定で律すべきか否かと言うことは、その一例でしょう。

このようなことが、いわゆる憲法の中の宗教云々ということに抵触しないとの解釈は、占領軍から現在に至っても国内でも多くの例のあることであり、外国に於ても然りでしょう。

私共の家庭に於ても、葬式にはその家の宗旨である仏式で行い、子供の結婚式は神前結婚式で済まし、或は自分はキリスト教徒であっても親せきの仏式の葬式に参加して何等差支えも抵抗も感じないのが一般ではないでしょうか。

靖国神社には何々神、何々仏がお祀りされておるわけではありません。護国の英霊の方々です。私共が祖先の年祀をそれぞれの家の宗旨によってとり行なう如く、国家が国の為に亡くなられた英霊のおまつりを国の伝統である神式による儀式をもってとり行なうことが、何で憲法に違反するのでしょうか。

毎年八月十五日に国で行なう追悼式でも、例え木標であってもこれに向かって礼拝すること自体、宗教といえるでしょう。既存の宗教儀式でなくても、新しく生れた宗教儀式と言えなくもないでしょう。理くつは付けようです。







次は、国家権力によって宗教法人を左右することは重大なる悪影響を将来に残すことになるとの論です。

この点は十分理解出来ますし、そのようなことは絶対あってはならないことと存じます。

然しこれは誤解であります。現在宗教法人である靖国神社を法律によって宗教法人から脱せしめ、特殊法人に移行して国で管理しようということではないのです。この件については自民党関係者も、反対党並びに宗教団体等に対し理解に努められておられる由ですが、靖国神社の国家護持については、靖国神社自身が自らの意志で、宗教法人を脱し一日も早く靖国神社を国へお返しし、国の手で護持していただきたいとの要望を、以前より申し出ておられるのであります。国家権力によって靖国神社に対して強制したという説は、何等根拠のないことであります。






軍国主義の復活云々と言う議論について




第二の軍国主義の復活云々と言う議論につきましても、私共戦友連の最も戒心反撥することであり、決議文その他で、そのいわれのないことを常に強調しております。

特に左翼陣営の方々は口を開けば民主とか、平和とか、如何にも簡単に使用しておりますが、民主とか平和とか言うことに対しては何者も反対することは出来ません。であるから彼等はいつも都合よく之等の言葉を使いますが、民主々義にしろ、特に平和の維持は、単純な考えや覚悟で出来るものではないと信じます。平和を守ることこそ私共の務めであり、また英霊に酬ゆる最大の餞であると信じますし、将来再びこの英霊のような犠牲者を出さないためにこそ、私共は私共の子孫に至るまで、靖国神社の真の意義なり英霊に対する崇敬の心を、持ちつづけたいと念願するものであります。


(昭和四十四年七月)








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