靖国神社国家護持は合憲か違憲か、専門学者の間においてもそれぞれの立場で論戦区々、何とも不可思議なことである。
いやしくも、国家の基本法たる憲法において、一部学説として異見のあるのはやむを得ないとしても、いわゆる素人までが、それぞれの立場で都合の好いように解釈し、その論争はますます先鋭化して、日本民族が分裂しかねない様相すら呈しつつあることは寒心に耐えない。
われわれ一般国民は、専門的知識を持たないから、とかく学者や専門家、文化人といえども、すべてが正鵠な意見を述べているとは思われない。その根底において民族精神が欠如し、あるいは事更に或る意図をもって論じている人も決して少なくないと思われる。
そこでわれわれは、一部偏向学者や文化人の違憲論に惑わされないためにも、自ら考え勉強することが必要だと思う。次に違憲論に対する見解を述べ、大方の参考に資したいと思う。
憲法にい謂うところの「宗教」とは、ある枠をもって解釈すべきだと考える。
余りにも広範な解釈をあてはめることの不適当は、素人でも理解できるところであり、憲法にも「宗教上の組織」とか「宗教団体」と、或る程度区分されておる。政教分離の日本国憲法は、諸外国のものに比べ最も厳格に解釈すべきだと言っても、それでは所々に矛盾が生じてくることは素人でもわかる。(実例多し)
靖国神社は「宗教」であるかないかの議論より、現行憲法に謂う「宗教」に含まれるのかどうか、また含めるのが適当かどうかということ。
現行の民法第三十四条でも、祭祀と宗教とは法制上区分してあるとのことである。また明治憲法では、神社祭祀は宗教にあらずと明確に規定されておったとのことだが、今、明治憲法の規定の当否は別としても、「宗教」と「祭祀」(広い意味では宗教)はある程度分けて解釈するのが適当ではないかと考える。
国の為・民族の為に一身を捧げた人々に対し、国家がこれを祭祀することは何れの国でも行われていることであり、しかも、そのやり方はそれぞれの国の伝統なり習慣に従って行なわれている。しかるに、わが国だけがどうして、その伝統、習慣に基いて国家が祭祀することに反対しなければならないのか。これが軍国主義復活につながり、またまた侵略戦争でも始めることになると言うなら、現に実施している世界中の国々は、軍国主義の国ばかりだということになる。おそらく、反対者の心の底には、国の為・民族の為ということについての理解が乏しいか、強いてこれを否定しようとする考えがあるに違いない。
終戦以前の日本の歴史において、靖国神社を含めて諸々の問題があったこと、良い面も悪い面も、時代の要請として何れの国々でもそうであったように、わが国でも例外でなかったことは事実である。しかし、あまりにもその悪い面のみを強調し、これに憎悪の念を燃やし、終戦前のもの全部を否定して生れ代らねばならないという思想は、決して正しい道とは思われない。
また靖国神社には、何宗の者でないと参拝してはいけないということはないし、参拝を強制するが如きことはもちろんあってはならない。そこに祀られておるのは「みたま」であり、キリスト教の「ゴッド」でもなく、不動尊でもお釈迦様でもない。
われわれの日常においても、親戚・知人それぞれ自家の宗教に従い祭祀が行なわれる。われわれは宗派が違ってもこれに参列することに何らの抵抗を感じない。仏教者の家庭でも神前結婚式が行なわれる等普通である。一部には、これに参列することに抵抗を感じ拒否する者がないでもないが、それは極く特殊な部類である。
これを要するに、違憲論の多くは余りにも、その根底に何らかの意図を有しており、恣意的である。それらの論調を慎重に検討するとき、余りにも日本の歴史や伝統についての考慮が乏しく、ややもすればこれを無視し否定するところが感ぜられる。祖国の将来について、その平和、自由、繁栄を希求することは日本人として当然のことであらねばならないが、これにかまけて自宗派の「エゴ」を通そうとするのは、強く指弾されなければならない。
靖国神社国家護持問題は、今や単なる憲法解釈上の議論ではなく、まさにイデオロギーの相違からくる左・右の抗争である。われわれ国民は、この点を十分認識して対処すべきである。
また現憲法は、決してマルクス・レーニン主義の革命を容認しておるものでないと考えるが、(憲法の改正は可能第九十六条)これを革命の思想から自分達に都合の好いように解釈することこそ、違憲と言うべきではないか。
(昭和四十九年八月)
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