外国を見て考えてみよう



靖国神社の国家護持に反対する人々の中には、その理由として憲法違反を挙げる人々が多い。憲法違反とは、もちろん第二十条に示された政治と宗教を分離する原則のことである。そして彼らは反対の帰結として、「だから靖国神社国家護持の代りに外国の無名戦士の墓のようなものを作ればよい」と言う。

しからば外国の無名戦士の墓とはどんなものだろうか。果して宗教性は皆無なのだろうか。国家との関係は全くないのだろうか。

否々、そんなことはない。むしろ各国とも自国の伝統儀式にのっとって立派に国家がやっている。では何故日本だけが違憲問題で騒ぐのだろうか。

我々はまず外国の実態を知り、その上に立って靖国神社を考え、引いては憲法二十条に掲げられた信教の自由、政教分離の真の意味をも明確にしなければならないのではないか。






■アメリカの場合




一九二一年三月四日、アメリカの議会は、その年の休戦記念日に、第一次世界大戦で仆れたアメリカ兵士の葬儀をアーリントン国立墓地の追悼場で行なう旨決議した。これがアメリカでの国家的規模における無名戦士の墓の発端である。アーリントン国立墓地は、ワシントン市の郊外にあり、設立されたのは一八六四年、現在は遺族の希望によって敷地内に五つの教会がある。







議会の決議にもとづき陸軍長官は、主計隊に無名戦士の選定を委任した。

主計総監はヨーロッパのアメリカ人墓地登録部長に対し、アメリカ戦没者の遺体の中から埋葬に用いるための一体を決定するため、戦場で仆れた四体をまず選定することを命じた。この四体はヨーロッパ戦場の共同墓地より選ばれ、フランスのシャロン市に運ばれてホテルに安置された。

次にこの中から一体を全無名戦士の代表として選んだが、その任務は武勲高きエドワード・ヤンガー軍曹に与えられた。一九二一年十月二十四日午後一時、ヤンガー軍曹は居並ぶ顕官、市民の前で、四つの柩の周りを三回めぐり、白いバラの花を左から三番目の柩の上に置いた。こうして一名の無名戦士が最終的に決定されたのである。

この遺体はシャロン市における簡素な公式式典の後、ルアーブルまで特別列車で送られ、ここからアメリカ巡洋艦オリンピア号に乗せられてアメリカへ帰国、国会議事堂の円型広間に移された。ここで遺体はかつて国に殉じたリンカーン、ガーフィールド等各大統領の時と同様に霊柩台に正装安置され、儀仗兵並びに陸海軍代表が警備に当った。翌十一月十日は即ち休戦記念日の当日、無名戦士の柩は棺側葬送者並びに儀仗兵によって護衛され、大統領以下これに従い、アーリントン墓地の追悼場の奥室に安置された。

葬儀にあたっては大統領が挨拶し、国会名簿記章、殊勲十字勲章が贈られた。連合国の各代表からは、夫々の国の最高勲章が贈られた。連合国の各代表からは、夫々の国の最高勲章が贈られた。ついで遺体は牧師、大統領、同夫人、その他の人々により納棺式が行なわれ、石棺に納められ、三発の弔砲が発射されて式は終了した。







その後一九四六年、第二次大戦の無名戦士を同じくアーリントン国立墓地に埋めることが国会で決議されたが、朝鮮戦争の勃発によって延期され、結局一九五六年五月三十日の戦没者追悼記念日に、朝鮮戦争の無名戦士の遺体も一緒に埋葬し、式典を行なった。

この式典は、まず国歌の吹奏、ついで神への祈り、二分間の黙祷、つづいてアイゼンハワー大統領が名誉勲章を贈り挨拶した。

次いで柩は第一次大戦無名戦士の墓の前の埋葬所に移され、そこでプロテスタント、カトリックおよびユダヤ教の従軍牧師が英語、ラテン語、ヘブライ語で埋葬の言葉を述べた。やがて大統領が彼個人の捧物として赤と白のカーネーションの花輪を供え、二十一発の礼砲と三回の小銃斉射が行なわれ、柩の上にかけられていた国旗が折りたたまれて式は終った。






■イギリスの場合




イギリスの無名戦士の墓はロンドンのウェストミンスター寺院内にあり、同寺院が管理に当っている。この他にホワイトホール街にも記念の施設があるが、これは記念碑である。

これらは第一次世界大戦の戦没者をも含めて、毎年十一月十一日の休戦記念日に国家的追悼式典が行なわれる。

ここに埋葬された遺体は一九二〇年十月十一日に、第一次大戦の戦没者を代表するものとしてフランーダースから持ち帰られたものである。(以下略)


(昭和四十七年十月)








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