横井庄一さんの奇跡的生還を契機として、戦没者遺骨の収集事業が大きく促進されようとしていることは事実のようである。おそらくここ数年間に、多くの遺骨が帰還することになるだろう。まことに喜ばしいことだが、一面、気になることが無いでもない。
と言うのは、収集された遺骨のほとんどが納められるだろう千鳥ヶ淵戦没者墓苑と、靖国神社の関係が不明朗だからである。
もっとはっきり言うならば、多くの遺骨が墓苑に納められることによって、国民の墓苑に対する関心が高まり、勢いの趨くところ、墓苑が戦没者を祭る主体になって、靖国神社が忘れられて行きはしないかという心配である。
「何を取越苦労な・・・」と笑われる方もおられようが、現実は必ずしも楽観を許さない。
千鳥ヶ淵墓苑のパンフレットにはこう書いてある。
「千鳥ヶ淵戦没者墓苑(無名戦士の墓)は、軍人軍属のみならず一般邦人をも含み、また既に遺骨の一部を遺族に渡された人々をも含む全戦没者の象徴的遺骨を奉安した、国立のお墓であります。わが国には明治以来靖国神社がありますが、終戦後宗教法人となり、外国の元首や使節等が、これに詣でることがむずかしくなり、諸外国の無名戦士の墓に類するものを官民一体で建てることになり・・・」と。
これでは私ならずとも、千鳥ヶ淵墓苑を無関心に見過して置くわけにはゆかないだろう。
では千鳥ヶ淵戦没者墓苑のいきさつはどうだったのか。次にその経過をふり返ってみよう。
発端◇厚生省の役所の中には、支那事変以来遺族の判らない遺骨が仮安置されていたが、昭和二十五年一月九日、比島の戦没者四千八百二十二柱の遺骨が米軍により送還されたのを契機に、国で墓を作って納骨しようとの考えが強まった。
二十八年九月二十六日◇厚生省、文部省、内閣法制局が合同会議を開き、戦没者の墓を国において造営する場合の問題点(特に憲法上)について検討した、結果は「支障なし」との結論であった。
二十八年十月六日◇厚生省は遺骨問題に関連の深い団体を招き、国で墓を作ることについて意見を聞いた。結果は全団体賛成であったが、一番関係の深い靖国神社が招かれていないことが指摘され、靖国神社の意向を聞く必要が述べられた。
二十八年十一月十八日◇前項に記した関連団体の第二回会合が開かれ、今度は靖国神社からも池田権宮司が出席した。
池田権宮司は次の点を厚生省援護局長に質した。
問 墓苑は引取り遺族の判らない遺骨を納めるために作られるのだが、これを全体の象徴的墓とするようなことになると、靖国神社と重複することになって将来具合が悪いのではないか。
答 全体の象徴とする考えはない。
問 名称が「無名戦没者の墓」となるようだが、これは国民にアメリカのアーリントン墓地を連想させ、全戦没者を代表する墓という印象を与えるのではないか。
しかもそれが国立の墓地であるから、現在私法人となっている靖国神社に代るものというような、国民の誤解を招く恐れはないか。
答 名称は未だ仮称だから、今後充分に考慮して決定する。
問 墓は宗教施設ではないのか。これを国で作ることは憲法に抵触しないか。
答 墓は宗教施設ではない。その証拠に所管が違う。(墓は厚生省、宗教施設は文部省)
以上のような経過があった後、昭和二十八年十二月十一日、厚生大臣より「無名戦没者の墓」に関する件が閣議に報告され、閣議で決定された。
太平洋戦争による海外戦没者の遺骨の収集については、関係国の了解を得られる地域より逐次実施しているが、これらの、政府によって収骨する遺骨及び現に行政機関において仮安置中の戦没者の遺骨であって遺族に引き渡すことができないものの納骨等については、おおむね下により行なうこととする。
以上
政府は二十八年一月、戦後はじめてマリアナ諸島など中風太平洋及びアッツ島の遺骨収集を実施したが、その他の主要戦闘地域についても、関係国の了解が得られる地域より逐次実施に移す計画であった。これらの収集遺骨のうち、使命が判明しない等のため遺族に引き渡すことができないもの、および現に厚生省等で仮安置中の遺骨で、遺族に引き渡すことのできないものの納骨のための「墓」を建立しようというのである。
もちろん、「墓」の建立自体については意義をさしはさむ余地はないが、その名称、建立場所については、「墓」の性格をめぐって重大な問題を包蔵していた。
すなわち、靖国神社は従来戦没者のみたまをまつるところとして国民の尊崇の中心になってきたが、新たに建設される「墓」のあり方によっては、将来、戦没者慰霊に関する国民の観念が、二元化されるおそれがあるのではないかということである。
この点について政府は、その「説明資料」で
「靖国神社は全戦没者の「霊」を祀るものであるのに反し、「墓」は特別の事情にある遺骨を納める施設であるので、両者の性格はおのずから異なり、両者は観念上も実体も抵触するものではない」
と述べている。また当時の厚生省引揚援護局長田辺繁雄氏は、問題点について次の通り説明し、「墓」の基本的性格を明らかにしている。
「墓の性格は、端的にいえば、戦没した者の無縁遺骨を収納する納骨施設である。したがって、この墓は、全戦没者を祭祀する靖国神社とは、根本的に性格を異にし、両者はそれぞれ両立しうるものである。
又この墓は、外国における無名戦士の墓とも異なるものである。外国における無名戦士の墓は、国営の戦没者の墓から一体を移し、これによって全戦没者を象徴するものとする建前をとっているが、今回国において建立する墓は、このような趣旨は含まれていない。この面からも靖国神社とは趣を異にする」
さて、昭和三十一年十一月二十八日、政府は閣議において、去る二十八年十二月十一日の閣議決定について再確認し、「墓」の建設を促進することになった。また建設場所については、政府は当時宮内庁所有の千鳥ヶ淵元賀陽宮邱跡とすることを内定した。
靖国神社および日本遺族会は、従来靖国神社境内に建立すべきであると主張してきたが、大勢上、政府の意向を認めざるを得なくなり、その代り十二月三日、当時の遺族会副会長逢沢寛氏と、官房副長官砂田重政氏(戦争犠牲者援護会々長)との間に要旨次のような覚書を取り交した。
以上
かくて、政府は十二月四日の閣議において、千鳥ヶ淵に建立することを正式に決定し、三十三年八月着工、翌三十四年三月に竣工、名称は「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」とされた。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑には、その後、海外で収骨された戦没者の御遺骨が納骨され、現在二十数万柱に及んでいる。戦没者の墓苑として、官民ともに慰霊の誠を尽くすべきことは当然だが、しかし、墓苑の性格は建設当時と何ら変更のないことはいうまでもない。
このことは三十四年三月の閣議報告においても「無名の御遺骨を国が責任をもってお守り申し上げる」という線が再確認されており、また、三十九年二月二十一日の第四十六国会衆院予算委員会の第一分科会における、民社党受田新吉氏の質問に対する政府答弁においても確認されている。
さらに、昭和五十年二月二十七日、第七五国会の衆院社労委員会において、民社党の和田耕作氏の質問に対し、厚生省の八木援護局長は、千鳥ヶ淵墓苑の性格について、その経緯を明らかにし、「氏名不明の御遺骨をお納めしている」と答弁している。また和田氏の「外国の国賓を千鳥ヶ淵にお参り願うよう誘導すべきではないか」との質問に対し、田中厚生大臣は「・・・千鳥ヶ淵の場合は今次大東亜戦の戦没者の方で身元のわからないとか引き取り人のない遺骨で、(外国の無名戦士の墓とは)範囲も違うので、本人の希望によってお願いするのが妥当と思う」と答えている。
以上の通り、千鳥ヶ淵墓苑の性格については疑念の余地はないが、注目すべきことは時の経過とともに、当初懸念されたように、千鳥ヶ淵墓苑を全戦没者を象徴する墓苑として性格づけ、位置づけようとする意図が、一部特に厚生省や墓苑奉仕会に見られることである。先に掲載した墓苑のパンフレットはその好例であり、墓苑建設の経緯を知らない国民にことさら誤った認識を与え、その基本的性格についてなし崩し的にあいまい化することは、後世のため憂慮されるところである。
私は、一日も早く靖国神社国家護持が実現することを期待すると同時に、その暁には、千鳥ヶ淵墓苑が靖国神社に移管されることを切望してやまない。
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