愚直な日本とあこぎな米国



産経新聞編集委員 高山 正之


歴史、とくに近代史を見ると、日本人というのは本当に愚直な、それも「愚」にアクセントがくる印象を与える。

例えば、数年の間隔で起きた日露戦争と米西戦争だ。二つの戦争の動機は同じだった。日露戦争(1904年)は、日本の脇腹に位置する朝鮮半島をロシアが取ろうとした。そんなところに掠奪と強姦の代名詞みたいな連中が来た日には、日本の安全など消し飛んでしまう。だから日本は「わが国の安全保障のために」宣戦布告して戦った。

一八九八年の米西戦争も同じように、北米大陸の脇腹にあるスペイン領キューバが米国の不安材料だった。「いつか敵対国の手にわたったら」という危惧は、実際に六十年後、あのキューバ危機で現実のものになったが、米国はそれを先読みして戦端を切った。ただ、自国の安全保障という直截な言い方はしなかった。「植民地支配にあえぐ人々の自立のために」、米市民が立ち上がった、と。

このとき海軍次官だったのがセオドア・ルーズベルトだった。彼は友人のアルフレッド・マハンの言葉を入れ、太平洋戦略の基地としてスペイン領フィリピンの奪取作戦も取り込んだ。そしてスペインに抵抗していたアギナルド将軍に、独立支援を餌にマニラ攻略の共同戦線を張った。

米西戦争はスペインがさっさと降伏して翌一八九九年には終わったが、ロサンゼルスにあるこの戦争記念碑には「一九〇二年」とある。これは、アメリカに裏切られて抵抗するアギナルド将軍とその一派を、米軍が完全に掃討し終わった年を意味している。


米上院へのレポートでは、サマール島で三十八人の米兵が殺された報復に、この島とレイテ島の住民二万余人が虐殺されるなど、二十万人が殺された。

この中には拷問死も多く、アギナルド・シンパとされた市民が逮捕され、「ウォーター・キュア(水療法)」の拷問を受けたと報告書は伝える。これはあの魔女裁判と同じに数ガロンの水を飲ませ、それでも白状しないと「膨れた腹の上に尋問の米兵が飛びおりる。彼らは口から数フィートの水を吹き上げ、多くは内臓損傷で死んだ。」(同報告書)

そうやって平定したことを記念する前述の碑には、「植民地支配にあえぐ人々に自由の手を差し伸べた米軍兵士たちに」と記す。

よく言うぜ、と思う。だからあの国は力はあるけれど、いまだに信頼感の低いままなのかもしれない。




策士、ルーズベルトに踊らされた日本


さて、その策士、ルーズベルトが大統領になったとき、日露戦争が起き、東洋の小さく貧しい日本が勝った。日本海海戦の勝利が伝わると、ニューヨーク・タイムズは「制海権を握った日本はウラジオストックを取って、この戦争を終わる。ロシアはシベリアの半分を割譲するだろう」と伝えた。それぐらいが近代戦争の相場だった。

しかし、その記事の出た翌日、ルーズベルトは日露講和の斡旋を名乗り出る。そしてポーツマス条約にいたるが、彼はこの時期、フィリピン領有の次の太平洋戦略の手を打っていた。コロンビアの一州を煽動して、反政府独立運動を起こさせる。彼はそれをキューバのときと同じように、「自由を求める人々に」手を差し伸べて独立支援をする。独立した州に、米国はその返礼として運河用地の租借を要求する。これが、大西洋艦隊が太平洋にすぐ回航できるためのパナマ運河である。


そして彼はもう一つ、大きな戦略プランを立てる。日本を仮想敵とした「オレンジ作戦」である。

そんな人物が、真剣に日本のためになる講和をやるだろうか。しかし、日本は愚直にも彼の善意を信じた。その結果が、賠償金は一銭もなし、領土割譲もシベリアなどとんでもない、わずかにロシアがもっていた満州の権益だけに終わった。

ドイツの駐北京大使の報告書がある。日露戦争のあと、中国は日本の勝利を両国民が手をとって喜び合い、さらに多くの若者が日本に留学している傾向を伝え、彼は、「中国の日本化が進めば欧米諸国の権益がそこなわれる。英米共に協力して日本を抑え込むようにすべきだ」と提案している。日本が中国と手を携えれば、、「大いなる脅威」だと、古くはロシアのゴローブニンがいい、その後ムッソリーニも、スチムソンも言葉を変えていっている。


中国領の満州を日本に与えれば将来どうなるかは、容易に想像がつく。事実、満州を巡る日中間のトラブルはそのわずか二十年後に火を噴き、欧米の脅威だった「日・中が手を握れば」は夢と消えてしまった。

しかし、何度もいうように、日本はあまりにも真正直で、愚直だった。この偉大なる策士の策を見抜けなかった。

日中間の紛争は欧米の蒋介石支援という形で泥沼化し、そして真珠湾、東南アジアへの戦火拡大へと進むが、これもルーズベルトの戦略の最終ステージだとみればよい。

問題はなぜ、欧米がここまでだまされやすい日本を煙たがるのか、ということだ。




他人をだます、"大義" ではなく、
行動で示した日本の生き方


もちろん、その背景には白人キリスト教国家の世界支配にとって、考えられる唯一の脅威だったこともある。

実際、この小さく貧しい黄色人種は、植民地の住民の前で三百年も君臨してきた白人を苦もなく追い散らし、白旗を掲げさせた。それは彼ら植民地の民に自立を促す大きな刺激となり、永遠と思われた植民地帝国主義を「ある意味で慈悲深く速やかに終わらせて」(クリストファー・ソーン)しまった。

しかし、最も重要なことは、例えば米国がフィリピンでやったようなまやかしを、あるいはアヘン禁止のハーグ条約を締結しながら、英・仏などが「自国植民地では留保」をつけてベトナムで、マレー半島でアヘンを住民に売りつける背信行為を、さらには「後進地域の福利教育を促すのが神聖な使命」(国際連盟条約)と神の名までかたって実際は愚民化政策と搾取を続ける非道を、日本は一切やらなかったことにある。


その真正直さゆえに、だから、日本がやってきたことは多くの被支配国の人々を揺さぶれたのだと思う。東南アジア諸国が独立したのも、前述したような日本兵士の強さに触発されただけでなく、それ以上のものがあったことは、独立後に示した脅威の経済発展にもうかがわれる。あるいは最近、解禁された米国公文書には、黒人民権運動の底流が日露戦争によって生まれたことを示してもいる。

日本と深くかかわった台湾の人が今、リップンチェンシン(日本精神)こそ「上に媚びへつらい、下にいばり散らす偏狭な民族性とカネしか信用しない中国人の悪性から台湾人を解放した」(蔡焜燦氏)とも。


米国は大声で「正義」を語る。自由のためにともいう。それが米国の大義だと。それがどんなものかは歴史が証明している。しかし日本は他人をだますための大義を口にはしなかった。行動で示してきた。日本の生き方は今も歴史を動かしている。



(注)  この記事は日本会議発行の「日本の息吹」8月号より転載しました。



平成12年8月25日 戦友連379号より


【戦友連】 論文集