靖國神社公式参拝をめぐる動き





  1. 戦没者の慰霊追悼は世界の常識です

    世界の主要各国には、自国のために一命をなげうった戦没者をまつる慰霊施設があり、自国の伝統、文化、習俗等にのっとった儀式で、元首等が参列しての慰霊行事を、国家、国民をあげて尊崇、感謝の誠をささげています。

    わが国でその慰霊施設にあたるのが東京・九段の靖國神社であり、明治維新以来の殉国者二四六万余の方々をおまつりしております。

    また、昭和60年8月、藤波官房長官は、「靖國神社はわが国の戦没者追悼の中心的施設である」と表明しております。




  2. 戦後の歴代首相は靖國神社に公式参拝していました

    戦後占領下で、首相として靖國神社に最初に参拝されたのは幣原首相(昭和20・10・11)でした。次いで、厳しい神道指令の下にあっても参拝されたのが吉田首相(昭和26・10)です。その後独立回復(昭和27・4・28)して20数年が経過した昭和50年4月までの間の歴代首相は、それぞれ春秋の例大祭時に公式参拝しておられました。(吉田4回・岸2回・池田5回・佐藤11回・田中5回・三木1回)

    ところが。同50年8月15日(終戦の日)に三木首相が私的参拝を表明して参拝した以降、「公私の別」、「憲法論議」が台頭し、天皇陛下の御親拝(戦後8回)もこの50年11月を最後として今日までなされておりません。

    その後三木首相が1回、福田首相3回、大平首相3回、鈴木首相は、昭和57年4月までの間6回、それぞれ「私的」と答えて参拝されましたが、8月以後2回「公私を語らず」参拝、中曽根首相は、「内閣総理大臣たる中曽根康弘として参拝した」と答えて10回参拝しておられますが、神社の記帳には三木首相を除いては、それぞれ「内閣総理大臣」と記しておりました。

    次いで昭和60年8月、藤波官房長官の諮問機関である「閣僚の靖國神社参拝問題に関する懇談会」の答申(報告)をうけて、憲法上論議をよばない、宗教色を薄めた一礼方式の公式参拝をされたのが中曽根首相だったのですが、中国からいわゆる「A級戦犯合祀云々」の干渉をうけ、以後今日まで首相の公式参拝は行われていないのが実情です。




  3. A級戦犯分祀論は矛盾しています

    戦没者の靖國神社への合祀の基準となったのは、戦後の昭和31年厚生省が、都道府県に「靖國神社合祀事務に関する協力について」の通達を出し、厚生省と都道府県が御祭神を選考して、合祀すべき「祭神名票」というカードが靖國神社に送付され、神社はこの手順によって一般戦没者を合祀しておりました。

    いわゆるA級戦犯については、この合祀基準により昭和41年2月に祭神名票が送られてきて、刑死した7名と未決中に亡くなった2名、受刑中に亡くなった5名の計14名の方を合祀したものです。




  4. 国会はA級戦犯の名誉回復を可決しています。

    占領軍によって旧軍人軍属の恩給支給が停止されていたのを、昭和27年4月(講和直後)の国会で「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を可決して復活し、次いで翌28年には、同援護法をさらに改正して、いわゆる戦犯として拘禁中の死亡者(刑死、未決死、獄死)すべてを公務死として取り扱うこととし、また、同29年には拘禁期間を恩給年限に通算することとしているのです。

    なお、昭和27年5月1日付、法務総裁が発した(法務府注意総発第52号)「連合国の軍事裁判により刑に処せられた者の国内法上の取り扱いについて」の通牒は、これらの方々の名誉を完全に回復したことを表明しているのです。

    これでおわかりのように、わが国には「戦犯」はなく、「抑留又は逮捕された者」、刑死者等には「法務死」の用語を使っているのです。




  5. 戦没者の慰霊祭等への公務員の参列は違憲ではありません

    戦後昭和20年12月15日占領軍は、いわゆる「神道指令」(国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件)を発し、完全に国と宗教団体との政教分離を指示しました。

    さらに追い打ちをかけるように、翌21年11月1日には「公葬等について」の通牒を発して、戦没者の葬儀等に公務員の参列等を禁止するという厳しい処置を示しましたが、昭和26年9月10日になると、一転してこれを緩和する、「戦ぼつ者の葬祭などについて」(略称「26年通達」)を発し、公務員が民間団体や宗教団体の行う慰霊祭に列席して弔辞を読み、花環(真榊)や香華料(玉串料)等を贈ることを許可することとしました。

    この通達は、前述の吉田首相が占領下で公式参拝された約40日前に出されたものであり、また、政教分離をうたった新憲法施行後の措置であったことが注目されるところであり、平成9年4月2日の愛媛県玉串料訴訟の最高裁判所の違憲判決に対して、同年5月19日に文化庁文化部長名の通知で都道府県に示した内容は、「26年通達は依然として有効である」としています。

    さらにまた、平成5年2月16日の箕面忠魂碑訴訟の最高裁判所の判決は、「市の教育長らが慰霊祭などに参列することは、社会的儀礼行為である」としています。




  6. なぜ靖國神社公式参拝は中断しているのか

    昭和60年8月15日、中曽根首相が、宗教色を薄めた一礼方式の靖國神社への公式参拝をされて以降、参拝は久しく中断しています。

    巷間にいわれているところによるとそれは、中国が「抗日戦勝利40周年の時に、A級戦犯を祀る靖國神社に、こともあろうに日本国の首相が公式参拝したことは、中国人民らの感情を傷つけた」という干渉に屈していることにほかなりません。

    ところで、いわゆるA級戦犯が合祀されたのは昭和53年10月で、それが一般に報道されたのは翌54年4月19日のことでした。

    この報道があった2日後の21日に、大平首相は参拝しておられます。また、中国の抗日戦勝35周年の節目に当る昭和55年8月15日に鈴木首相は参拝しておられますが、このいずれにも中国からの干渉はありませんでした。

    それが6ヶ年余を経過した昭和60年の中曽根首相の時に表面化したのですが、当の中曽根首相は、その後新聞紙上等で、(平11・8・14読売、平8・9・30自著「天地有情」、平9・4・26朝日、平11・6・7毎日)「中国の胡耀邦総書記の失脚につながるために参拝を行わなかった」と表明しており、A級戦犯合祀(分離)については、直接ふれられておりません。



    そもそも、靖國神社への首相の公式参拝云々は純然たるわが国の国内問題で、個人に信教の自由があるように、それぞれの国も、その国の伝統、文化、習俗にもっとも見合った儀礼と施設で、戦没者に尊崇、感謝の誠をつくす自由があるのです。

    国のために、一つしかない尊い命を散らした戦没者に、時代はかわったのだからと顧みないのは、死者に対する国家の背信行為ということができます。

    森首相は何も臆することなく、毅然として靖國神社に公式参拝され、戦没者英霊の御心にこたえていただくよう、ここに強く要請いたします。


(英霊にこたえる会の資料より)



平成12年9月25日 戦友連380号より


【戦友連】 論文集