「南京大虐殺」はなかった
――― 意図的宣伝に騙されるな ―――



備前市  西川 晃男




  1. 市民は全員無事であったと、南京安全区国際委員長から日本軍に感謝の書状が出されています。

    当時の中国の首都南京が陥落したのは昭和十二年十二月十三日ですが、十二月一日に南京市長は、市内残留市民に対して、市内に設けられた安全区に避難するよう命じました。この安全区を管理したのは、当時南京に残留していた米・英・独人による十五人の国際委員会でした。その委員会の記録によりますと、全市民二十万人は全員無事であったと、ジョン・H・ラーベ国際委員長(反日的ドイツ人)が日本軍に感謝の書状を出しているのです。




  2. 日本軍が占領したことにより治安が回復し、市民生活に不安がなくなったのです。

    日本軍が南京市を占領したことにより、市外に避難していた市民は安心して続々と市内へ帰り、二十万人だった市民は一ヶ月後に二十五万人に増加し、治安も格段によくなりました。その様子は当時の朝日新聞に写真入りで報じられ、新聞縮刷版に残されています。




  3. 大勢いた内外の報道記者の誰もが、虐殺を報道していません。

    南京陥落と同時に取材のため入城したのは、新聞記者・カメラマンの外人記者五名を含め約百二十人と、その他著名な作家・詩人・評論家たちもいましたが、その誰一人として虐殺・強姦の場面や屍体の山・血の川等を見ていないので、全く報道されていません。




  4. 便衣兵の掃討は正常な戦闘行為なのです。

    一九〇七年のヘーグ陸戦条約(付属規則)によりますと、戦闘員は非戦闘員との区別ができるように遠方から確認できる標識をつける事、陸戦条約を守る事などが定められ、これに違反した場合の罰則は「捕虜としての待遇が受けられない」となっています。最高指揮官が逃亡したのでパニックに陥って、潜入が禁止されている安全区に逃げ込み、民衆の着衣を着て抵抗する便衣兵を捕らえて処刑する事は、戦時国際法にのっとる正当な戦闘行為であって虐殺ではないのです。




  5. 中国国民党側の軍事報告にも「市民の虐殺」はありませんでした。

    日本軍と戦った蒋介石の国民政府軍の総司令官 何応欽 上将の軍事報告書の中に、南京が陥落したときの様子が詳細に述べられており、将校・下士官・兵の戦死傷者の数も明細に記録されていますが、「市民の虐殺」などは全く書いてありません。




  6. 中国共産党の戦記の中にも「南京虐殺」の記述は一行もありません。

    戦闘の当事者でなかった当時の中国共産党は、このときの戦闘を批判的に注目しており、後に『抗戦中の中国軍事』なる詳細な記録を残していますが、この中にも「南京虐殺」の事など一行も書かれてはいないのです。




  7. 国際連盟理事会に於ても「南京虐殺」など話題にもなりませんでした。

    当時の国際連盟は、シナに味方して日本を非難する決議まで行っています。しかし南京陥落直後の一月二十六日から開かれた国際連盟百回理事会でも、その直後の米・仏・ソ・中の代表によるシナ事変問題小委員会でも、「南京虐殺」など話題にさえなりませんでした。



その他多くの客観的証拠が明るみに出ていますが、マスコミも政府も取り上げません。中国が怖いので御機嫌を損ねたくないからなのです。何と情けない話だと思いませんか。

「南京大虐殺事件」は、東京裁判の場で、日本が二度と立ち上がれないように日本民族の魂を徹底的に貶めるために作り上げられた事件なのです。そして今再び宣伝しているのは、チベットでの人権抹殺から世界の目をそらせ、原子爆弾投下や都市の無差別爆撃の戦争犯罪を隠蔽して、日本人だけを残虐な民族と定義づけて孤立させる為なのです。我々はそんな残虐な民族ではありません。

どうか目覚めてください!

そして祖先に感謝し、民族の誇りを持って生きようではありませんか。




(佐藤和男先生 監修)



平成12年10月25日 戦友連381号より


【戦友連】 論文集