二十世紀を送るにあたって
  ―今世紀の歴史を彩ったわが国の足跡を顧みる―



戦乱と緊張に明け暮れた二十世紀も、まもなくその幕を閉じようとしている。思えば百年前のわが国は、日清戦争に勝利を収めたものの、三国干渉の圧力の前に涙を呑んで、文字通り『臥薪嘗胆』国力の充実に努めざるを得なかった。が、図に乗った帝政ロシアの南下政策にその生存を脅かされたわが国は、その後幾年も経ずして、国運を賭してロシアと戦端を開くに至った。

十九世紀の欧米列強によるアジア侵略の蚕食から免れたとはいえ、不平等条約に甘んじざるを得なかった極東の小国日本と、大国ロシアとの勝敗の帰趨は、当時の世界の目から見れば明らかであった。しかしその結果は予想に反し、米国の斡旋により、日本の勝利の形で講和条約に漕ぎ着けることができた。この日露戦争における日本の勝利が、二十世紀の世界の歴史の方向を決定づける一つの大きな端緒となったことは、何人も否めない事実であろう。


その、第一の歴史的意義は、白人優越主義から脱却し得ることを有色人種に意識させ、植民地としての屈辱から解放を求める先覚者たちを大いに鼓舞したことである。その反面、白人の日本に対する警戒心と反感を呼び起こしたことは、その後の歴史が証明している。特に、他の欧州先進国に比べ対アジア進出に遅れを取っていた米国は、大陸における日本との利害も関連してわが国に対する敵対心を強め、遂には大東亜戦争への突入に至った。その間、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約締結時の人種差別撤廃の提案も、英米両国の反対により合意するに至らず、漸くその実現を見たのは、第二次大戦で日本の大きな犠牲を契機に、多くの有色人種の民族国家が独立の栄誉を勝ち取ってからのことである。

しかし私は、今日の人種平等主義も近代の人種主義に基づく理念であり、現実には今尚欧米人特にアングロサクソン族には、内面的にレーシズム(民族優越思想)が根強く残っていることを見逃す訳にはいかない。今に残る無法な日本への戦争責任追及など、その現われである。

かねて『滅清興漢』を旗印に清朝の打倒を練っていた中国革命の父といわれる孫文は、日本の列強の仲間入りに刺激されて、一九一一年辛亥革命により中華民国を樹立することに成功した。しかし当時の支那は地方軍閥が割拠していて、孫文の後継者となった蒋介石が国府軍を率いて北伐を完成させ、曲がりなりにも全国を統一したのは一九二八年のことである。しかもこの間、日露戦争の敗北により急激に勢威の衰えを見せたロマノフ王朝は、マルクス=レーニン主義者の餌食となり、ロシア帝国は滅亡し、一九二二年ソビエト社会主義連邦共和国としてスターリン独裁の恐怖の共産党政治が始まった。


ソ連邦のみならず世界の赤化を目指したスターリンは、国際共産組織の網目を世界の各地に張り巡らし、暴力革命をも慫慂するボルシェビキ思想の滲透に異常なまでの神経を尖らせた。その思想に共鳴し、中国共産党の始祖となったのが毛沢東であり、以来中国の統一をめぐって蒋介石国民党と覇を競いあい、一九三六年『西安事件』に際し、スターリンの指令のままに所謂第二次国共合作を行い、抗日統一戦線を結成し、翌年七月七日その謀略は盧溝橋事件を誘発させ、わが国をその後の日支事変の泥沼に引摺り込んだ。その最後の結末は、日本の敗北後、支那事変の中でいわば日本軍の庇護下で軍事的実力を蓄えた中国共産党の兵力が、国府軍を台湾へ追い込み、国家としては支那事変について日本とは直接関係のない新しい中華人民共和国が、大陸に誕生したのである。

事実我々支那事変に従軍した日本軍隊は、わが方の短期平和解決の望みに反して、米国の援助を頼りに長期戦に持ち込まれて広大な地域に戦線を拡大せざるを得ず、その第一線は国府軍と対峙していたものの、占領地域は点と線であり、その隙間を縫い、共産党軍は国府軍との対決を避けつつ、日本軍の占領地内で巧みな啓蒙宣伝によって民心を把握し、兵力を養い膨張させ、時として戦意高揚のため小部隊とみれば日本軍に襲いかかり、いざ討伐となれば良民に化ける彼らの常套戦法には、ずいぶんと神経を悩まされたものである。何のことはない。近時ことあるごとに戦争責任を言い募る中国共産政府の成立に手を貸したのは日本軍であり、お礼を言われこそすれ、その咎めを受ける筋合いなど毛頭ないといって差し支えあるまい。


さて、アジア経綸において英・独・露諸国の後塵を浴びた米国が、ロシアを負かした日本を侮るべからざる敵と見直し、「オレンジ計画」と称して対日作戦計画を練っていたことは、今や紛れもない事実として認められているが、さらに第一次世界大戦の影響で対アジア貿易を飛躍的に増大させた日本は、一九二二年米国の主導により締結された九ヶ国条約の下、そのアジア政策に大きな制約を受けると共に、一九二四年、米国に日本人排斥移民法の成立を許した。更に大事なことは、十九世紀の半ば以来西欧列強の屈辱を甘受してきた中国は、漸く目覚めた民族意識が中華思想とも絡み合い、外国権益排斥運動を対日一本に絞り、排日・侮日運動が日増しに強まっていったことである。

かくして関東軍の一部の独断により一九三一年柳条湖事件がおこり、満州事変の引き金となった。事変の終結後、実情調査のため派遣されたリットン調査団の国際連盟への報告書は、必ずしも日本を一方的に非難するものではなかったが、一九二八年のパリ不戦条約(ケロッグ・ブリリアン協定)成立直後の事でもあり、時の利は我に味方せず、わが国をして国際連盟を離脱せしめる要因となった。

この『パリ不戦条約』は、第一次世界大戦が戦車や毒ガス等大量破壊兵器の登場により、その戦禍が余りにも大きく再び戦争を起こしてはならないとの反省から、「国際紛争解決の手段としての戦争の放棄」を規定したものであり、自衛のための戦争は当然の権利として認められ、否定されたのは飽くまでも侵略戦争についてのみであったが、侵略の定義も曖昧で且つ自衛か侵略かの判断は当事国自身判断に委ねるという代物で、言わば理念の提言に過ぎず、国際法上何らの法的効力を有するものではなかった。にも拘らず、第二次大戦後日本を断罪した極東軍事裁判・通称「東京裁判」で法的根拠として通用されたのが、この「パリ不戦条約」であり、この一事を以てしても、この裁判が勝者の敗者に対する単なる復讐劇に過ぎなかったことを如実に物語っている。


私がここで問題にしたいのは、何故米国は、一九五〇年朝鮮戦争による共産勢力の民主主義陣営に対する挑戦を受けるまで、その元締めであるソ連の衛星国武力侵略乃至は、共産主義の世界的浸透等、スターリンの暴虐を見て見ぬ振りをしていたかということである。歴史に『若し』は禁句であるが、ドイツや日本が必死になって行った防共政策を無視しなければ、支那事変が大東亜戦争にまで拡大されることを防げたかも知れないし、そうなれば中国に共産党政権の誕生も見なかった可能性が十分にあり得る。あれだけ綿密に世界の情報を収集する態勢を持ち、現に日本の進路を的確に把握していたアメリカが、ソ連の内情に疎かった筈はない。だとすれば、将来の対決を予想しつつも、当面の敵を撃破すべくソ連の力を利用したほうが国益に適うと判断したとみなければなるまい。そう考えれば、日米開戦の事実上の宣戦布告であったハル・ノートの起案者が、国務省の重要ポストを占めていた共産主義者であったことにも納得が行く。

それにしても今世紀前半の対ソ連政策のつけは、米国にとり予想外の大きなものであったに違いない。即ち冷戦構造下の軍備競争の膨大な出費は言わずもがな、特に米国として初めて味わったベトナム戦争の敗退による屈辱感は、湾岸戦争の勝利を手にするまで国民の重い負担となって残り、更に東アジアにおいては、米国と比肩し得るまでに成長した共産中国との今後の対処の仕方に、かなりの勢力を使わざるを得ない状況の出現等々である。


一方コミンテルンが一九三二年日本共産党に指令した「日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼ」(「三十二年テーゼ」)は、谷沢永一氏の『悪魔の思想』によれば、党員はもとより進歩的文化人の聖典であったが、その首謀者スターリンが日本国民の意志喪失を狙ったのは勿論のこと、日露戦争の敗北を深く根に持つ怨みと、憎しみと、復讐心が内在していたと指摘している。その思想が、戦後の米国の「日本弱体化」の占領政策における「歴史」「道徳」「教育」の否定による「日本精神」のスポイル(掠奪)と殆ど軌を一にしていることから、占領軍監視下の日本の行政は社会主義革命政策の実施と同様な有り様を呈したことは、我々の記憶から消し去ることはできない。

そして又被占領下に押し戴かされた「平和憲法」は、それこそ天与の不磨の大典として左翼陣営や進歩的文化人に受け入れられ、基本的人権尊重の名の下に、私的権利の最大化と公的義務の最小化こそ戦後民主主義の真髄とばかりにマスコミにも持て囃され、政治も大衆人気主義に迎合せざるを得ず、世を挙げて泰平ムードに耽溺しつつ今世紀の後半を過ごし、政治は国益を無視して党利党略に走り、官僚はセクショナリズムと自己保身に憂き身をやつし、財界はグローバリズムの波に右往左往し、人々は明日の不安に戦き、社会はカオス(混沌)の真っ只中にあるのが、世紀末の今日の日本の現状ではなかろうか。


自国の防衛を他国の軍事力に委ね、盲目的に物質的繁栄のみを追及した結果、一九六〇年代から八十年代かけて経済大国に伸し上がり「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などの虚名に浮かれた経済も、失われた十年間の軌跡を辿れば、来るべき新世紀には槿花一朝の夢と化すのではないかと私には思われてならない。

世界を二分した冷戦の氷は溶けたが、その残滓として、わが国の位置する東アジアには往時に勝るとも劣らぬ軍事的緊張が横たわっている。即ち、曾っての東洋の覇王への復帰を目論む中共の限りなき軍事力の増強と、北朝鮮のウルトラ共産主義の絶対独裁者金正日の、自由主義国家への露骨な挑戦者の存在である。「日米防衛のための新しいガイドライン」の協定が緒に付いたにしても、周辺事態の有事に対処し得る法的整備は遅々として進まず、後方支援・武器使用の条件云々に口角泡を飛ばしている危機管理に対する政治の能天気ぶりでは、一旦緩急の際には、またまた湾岸戦争時の恥の上塗りをするばかりでなく、今度は裸の王様となってパワー・ポリテックスの支配する荒海に放り出される運命が待ち受けていることを覚悟しなければならない。

今こそ我々は、左翼勢力の主導によって国民の間に蔓延した軍事アレルギーから脱却し、二千年の歴史と伝統に輝くこの日本を守り抜くべき国家安全保障対策に万全の策を講じなければならない。この際靖國神社の国家祭祀は、祖国に殉じた英霊に対する国家的道義であり、国防の原点であることの世論の喚起に、尚一層の努力を払わなければならない。


以上、駆け足で過去一世紀を回顧したが、説明不足で分かり難かった点、並びに独断と偏見、平にご容赦を願います。


佐藤 博志  記


平成12年12月25日 戦友連383号より


【戦友連】 論文集