昭和天皇 御生誕百年





二十世紀第一年の明治34年(一九〇一年)にお生まれになった昭和天皇は、激動の二十世紀に際し、わが国の運命を一身に担われ国家・国民を導かれました。御生誕百年にあたり改めて往時をお偲びし、日本の二十一世紀の進路を考えるよすがとしていただきたいと思います。










終戦の聖断




昭和二十年八月十日、前日からの御前会議の決定に従い、日本政府は国体護持を条件にポツダム宣言受諾を連合国に通告、十二日に連合国から回答が届いた。「日本政府の形態は日本国民の自由意志に委ねられる」「天皇及び日本政府の国家統治の大権は連合軍最高司令官の制限の下に置かれる」との回答に、十四日の御前会議は再び紛糾したが、昭和天皇は最終的に終戦の聖断を下された。






昭和二十年八月十四日の御前会議における
昭和天皇のお言葉




外に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。

反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変りはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を続けることは無理だと考える。

国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹(いちまつ)の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申し入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。

さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民(ばんみん)の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我が(くに)がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を()めさせることは私としてはじつに忍び難い。祖宗の霊にお応えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の()り方に全幅(ぜんぷく)の信頼を()(がた)いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。

私は明治大帝が涙をのんで思いきられたる三国干渉当時の()苦衷(くちゅう)をしのび、この際堪え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。今日まで戦場に在って陣歿し或は殉職して悲命に斃れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も(はなはだ)しかろう。陸海軍将兵はさらに動揺も大きいであろう。この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣はともに努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き(さと)していもかまわない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。

以上は私の考えである。


(下村海南『終戦秘史』より)






終戦時の御製   三首




  身はいかになるともいくさとどめけり
       ただたふれゆく民をおもひて


  国がらをただ守らんといばら道
       すすみゆくともいくさとめけり


  外国(とつくに)と離れ小島(をじま)にのこる民の
       うへやすかれとただいのるなり



(木下道雄『宮中見聞録』より)








マッカーサー御訪問




昭和二十年九月二十七日、昭和天皇はアメリカ大使館にマッカーサー連合国軍最高司令官を訪問された。この会見内容は極秘とされたが、昭和三十年、外務大臣・重光葵が日米会談で訪米の際、昭和天皇の伝言を携えてマッカーサーを訪ねたところ、マッカーサーの口からその会談の内容が伝えられた。そのことは同年九月十四日付の読売新聞に初めて発表され、マッカーサーも後に自らの『回想記』にそのことを記した。また、ただ一人、昭和天皇とマッカーサーの会見に同席した通訳の奥村勝蔵氏も回想録を残している。しかし、昭和天皇は、マッカーサーとの「会談の内容は秘密にする」との約束を生涯守り通された。






マック「どんな態度で、陛下が私に会われるかと好奇心をもって御出会いしました。しかるに実に驚きました。陛下は、まず戦争責任の問題を自ら持ち出され、つぎのようにおっしゃいました。これには実にびっくりさせられました。

すなわち”私は、日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります。また私は、日本の名においてなされた、すべての軍事指揮官、軍人および政治家の行為に対しても直接に責任を負います。自分自身の運命について貴下の判断が如何様のものであろうとも、それは自分には問題ではない。構わずに(すべ)ての事を進めていただきたい。私は全責任を負います。”

これが陛下のお言葉でした。私は、これを聞いて、興奮の余り、陛下にキスをしようとした位です。もし国の罪をあがなうことが出来れば進んで絞首台に上ることを申出るという、こに日本の元首に対する占領軍の司令官としての私の尊敬の念は、その後ますます高まるばかりでした。」

(昭和三十年九月十四日付読売新聞
重光葵外務大臣寄稿
「天皇陛下を賛えるマ元帥」より)









天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。

「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした。」

私は大きい感動にゆすぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が、個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じとったのである。

『マッカーサー回想記』より)










「今回の戦争の責任は全く自分にあるのであるから、自分に対してどのような処置をとられても異存はない。次に、戦争の結果現在国民は飢餓に瀕している。このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出るおそれがあるから、米国に是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充てて頂ければ仕合せである」と陛下が仰せられて、大きな風呂敷包を机の上に差し出された。

それまで姿勢を変えなかった元帥が、やおら立上って陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして御手を握り、「私は初めて神の如き帝王を見た」と述べて、陛下のお帰りの時は、元帥自ら出口までお見送りの礼をとったのである。

「奥村元外務次官談話記録」より)










―――終戦直後の混乱期に、たとえばマッカーサー元帥にお会いになりましたけれども、当時の印象に残られたようなお話をしていただけませんか。


昭和天皇   マッカーサー司令官の話というものは、マッカーサー司令官とはっきり、これはどこにもいわないと約束を交わしたことですから、男子の一言のごときことは守らなければならないと思いますから、今そういうことを私が話したということになると、その約束を破ったということになると思います。それでは世界の信用を失うことになりますからいえません。

(昭和五十二年八月二十三日の記者会見)








全国御巡幸




昭和天皇は、敗戦でうちひしがれた国民を慰め励まそうと、昭和二十一年二月から昭和二十九年八月にかけて、全国各地をお巡りになった。全行程三万三千キロ、総日数百六十五日、学校の校舎や汽車の中に宿泊されることもあった。






この戦争によって先祖からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。このことをどうしてもなるべく早い時期に行いたいと思う。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだろうが、自分はどんなになってもやりぬくつもりであるから、健康とか何とかはまったく考えることなくやってほしい。宮内官はその志を達するよう全力を挙げて実行してほしい。

(昭和二十年十月加藤進宮内府次長への昭和天皇のお言葉)






  御製   (昭和二十一年)





  (たたかひ)のわざはひうけし国民(くにたみ)
       おもふこころにいでたちてきぬ


  わざわひをわすれてわれを出むかふる
       民の心をうれしぞと思ふ


  国をおこすもとゐとみえて
       なりはひにいそしむ民の姿たのもし







この記事は「祖国と青年」
(平成13年4月号)より転載しました。







平成13年6月25日 戦友連389号より


【戦友連】 論文集