大東亜戦争の真の意義





 府中市  赤堀 光雄







昭和天皇の御聖断が降り、広大な地域に展開していた日本軍が一糸乱れず戦争行為を停止した記念すべき八月十五日が、またやって来る。例年のことながらこの月に入るや、NHKを筆頭とする偏向マスコミの反戦平和の大合唱が繰り広げられ、戦争の悲惨さ、日本軍の残虐行為なるものを、事実を歪曲捏造してまで針小棒大に暴き立て、戦争責任なるものを飽くことなく追及する。まことに日本人として聞くに耐えず痛恨の極みである。このように己の母国を臆面もなく貶しめ、卑め、辱しめて恬然としている売国奴を放任している国が、日本以外にあるであろうか、恐らく「ノー」であろう。

しかし今年は、圧倒的な国民の支持を得て総裁選に勝利した小泉純一郎氏が、改革断行を旗印に、先ず謝罪外交の弊を改めるべく、靖國神社の参拝を明言されたことは、当を得た英断であった。







そもそも靖國神社の問題は、宗教や憲法で論ずるものではなく、靖國神社こそ崇高にして犯すべからざる次元の高い存在であることを銘記すべきである。これは日本人の心の問題であり、外国の干渉を絶対に許してはならないことである。いわば、これが聖域なのである。中国、韓国はその聖域を敢えて土足で踏みにじろうとしているのである。

その常軌を逸した振る舞いを阻止する手段を講ずることなく、逆に彼等に迎合して問題の火に油を注ぐ愚を演じているのが、この時期にわざわざ駐韓詣でをして廻った連中なのである。そして、いわゆる似非文化人と称する手合いまた然り、真に度し難き徒輩である。

また彼等が反対の理由にあげている憲法なるものは、終戦直後にマッカーサーの占領政策(日本弱体化政策)として有無を言わさず押しつけられたものであることを知りながら、そしてその後、変転極まりない内外の情勢にマッチしないことも承知しながら、戦後五十余年全く改正せずに現在に至っているのである。国家運営の基本法である憲法を、戦に負けたが故に敵国に押しつけられたのに、それを有難がって護憲護憲とは、おやはや奇なるかな日本と言わざるをえない。

一方、同じ敗戦の苦渋を舐めたドイツでは、クライン孝子女史(ノンフィクション作家)の言によれば、戦後実に四十七回も憲法を改正しているという。しかも驚くべきことは、昭和三十年代に既に徴兵制がしかれているという。大和民族の零落した腑抜けぶりに比べ、ゲルマン民族の芯の強さに只々脱帽するのみである。







ところで、自虐史観に基づいて日本のマイナスの面のみをあげつらう彼等は、あろうことか中・韓両国に日本の内情を御注進に及び、日本に対する干渉をそそのかすという売国行為を続けているのであるが、次にあげる事実があったことを知っているのであろうか。

それは、かつての社会党の佐々木委員長が団長となって中国を訪問した時の話である。佐々木委員長は例の如く、毛沢東に対し「かつての戦争では大変迷惑をおかけした」と謝罪した。ところが毛主席は次のように答えた。「何も謝ることはありません。日本軍の力なくして我々は蒋政権から権力を奪取することは不可能だったのですから」と。

この毛、佐々木対談の事実を証明する資料を紹介しよう。日本社会党の理論雑誌『社会主義の理論と実践』一九六四年九月号、そして一九六九年八月林彪が編集した『毛沢東思想万歳』の五三三〜四頁、その他東京大学から出版されている『毛沢東思想万歳』の下巻一八七頁に掲載されている。

このように、毛沢東の談話は間違いない事実であるが、その発言が何を意味するか。それは、支那事変(日中戦争)は相手の都合により、もっと具体的に言えば、いわゆるレーニンの「アジア迂回政策」の具体的戦略として日、中(蒋介石の国民軍)を戦わせて「漁夫の利」を得る権謀術数に、日本はまんまとはめられていたということの証しである。







話は変わるが、今回の靖國論争の中でしばしば耳にした言葉に「A級戦犯」なる語があった。はっきり申せば、日本にはAもBもCも戦争犯罪人なるものは只一人も存在しない。

東京裁判は今や、裁判の名を借りた勝者の敗者に対する怨念晴らしだったことは世界の通説である。こんな茶番劇で決められた戦犯を、事もあろうに同じ日本人が、今だに本気で戦犯だと思っているのは不見識の極みだ。

東京裁判については『世界が裁く東京裁判』と題する良書がある(青文社刊)。世界の識者八十五名の東京裁判批判集であるが、一読もって東京裁判の真実を知ることが出来る。ぜひ購読されることをお奨めするが、その一片を次に紹介しよう。(頁二四八)筆者はインド独立運動指導者の一人であったヘランボ・ラル・グブダ氏である。

「東京裁判は、二十一世紀に入れば必ず多くの亜細亜の国々によって見直されるであろう。そして第二回東京裁判が実現する。その頃は亜細亜も世界も良識を取り戻して、総てが公正にして真理の法の前に平等に裁かれる。その時こそ東亜積年の侵略者であった欧米列強の指導者達はこぞって重刑に処せられ、かつて重罪をこうむった日本人就中A級戦犯の七柱は一転して全亜細亜の救世主となり、神として祀られる日が来るであろう。またそのようになるべきである」。

更にイギリスの大歴史学者H・G・ウェルズ氏は、終戦直後に早くも大東亜戦争を高く評価して、「この大戦は植民地主義に終止符を打ち、白人種と有色人種の平等をもたらし、世界連邦の礎石を築いた」と評価し、またP・ドラッカー氏も、「今次大戦で結局勝利したのは日本である」

以上のように世界の識者が大東亜戦争を高く評価しているのに、日本のマスコミは相変わらず自虐一点張りの終戦記念日論評である。我々はかつての大戦の真の意義を後世に伝えてゆく責任と義務がある。また同時に、国内に跋扈(ばっこ)する反日分子や鳩・菅・土井の面々、および与党内に巣喰う獅子身中の虫に、これ以上売国行為を許してはならない。







ともあれ、この記事を書いているうちに、小泉総理の靖國神社参拝が終わった(十三日)。今度こそはと期待に胸をふくらませていたが、公約の十五日でなかったことは”失望”の一語に尽きる。それは単に靖國参拝に対する失望にとどまらず、これからの構造改革に取り組む小泉総理の「有言実行」をどこまで信用してよいのか、一抹の陰りを感じた失望でもある。

小泉総理よ、「熟慮」も結構だが、弱友の妄言に動揺すれば戦は闘わずして敗れることを銘記されよ。




  祭 五 一 会








平成13年8月25日 戦友連391号より


【戦友連】 論文集