白い思い出





サンパウロ市  高野 泰久
(ブラジル・日系一世)


12月始めとしては、わりに暖かいという日の午後、取引先の方のご案内で、今回これだけは何としてもと胸に強く秘めてきたこと、九段の靖國神社への参拝をしてきた。大きな鳥居を見上げ拝殿をくぐる時、何かが熱い固まりとなって、胸の中を突き抜けていったような感じがした。我知らず姿勢を正さねばいられないあのたたずまいの中で、戦争を知らない日系三世の妻と、南洋の海深く眠るという叔父をはじめ246万余柱の英霊にしばしの黙祷を捧げられたのは、おぼろげではあるが戦争の記憶を持つ者、とくに海外で生活する私にとっては、靖國神社を意識するようになってこの方やっと果たせた我が心への大きな安らぎだった。





もうすぐ戦地へ渡るという叔父を、家族皆でその部隊に慰問した時、「どうれ、しらみでもとってやろうかな」と、私をしっかり抱きあげてくれた手の大きさが、ぬくもりが、今も胸の奥に、体のどこかに残っているような気がする。

横須賀の軍港を後にして、どのくらいの時が流れたのか、あの日は、父にとってはただ一人の弟である叔父の遺骨を、中央線の駅に迎えた日だった。真夏の山峡の空に沸き上がる入道雲の白さと、父の胸に抱かれた遺骨を包んだ布の白さだけが、何故か今になってもはっきりと思い出される。





「世が世であれば、君なんか俺の部下になっていたかもしれんなあ・・・」と、店にくる度に当時の話をしてくれた元予科練の生存者の一人が、先頃亡くなられた。72歳だった。米軍との実験体験や、機体に銃撃を受け海面に不時着漂流中に、偶然にも日本の潜水艦に救助された話など、あの戦場の全てをくぐってきたような人だった。

棺は今日(こんにち)あるを覚悟で整えていたであろう、折り目がきちっとついた海軍機で包まれ、その上に少しのずれもない真っ白の艦内帽が置かれているのを見たとき、何故かあの遠い日の夏の雲と白い布が、胸一杯に蘇って来た。

照明を落とした葬儀所では、故人を司令と呼んでいたブラジル桜花会の人達が、兵士でもなく戦場でもなく移民として異国の土となった戦友のありし日を語り、冥福を祈っているうちにも、やがて出棺の時が来た。気がつけば、誰が歌い出すというでもなく”海ゆかば”が、静寂の中にもうねりとなって見送る人達の胸を揺さぶっていた。





まだ戦後の混乱が続く1953年に、ブラジル移民の道が再会され、戦地から戻ってきたが祖国の焼土には住めなかった元兵士達が、平和を求めて移民となった。また、乳のみ子を抱き、幼子(おさなご)の手を引いた満州からの引き揚げ者が一家をあげて、安住できない祖国を後に、新しい生活への全てを求めて再移民した。それらの数は調べようもないが、あれから半世紀が過ぎ、私のまわりでも数え切れない人達が、祖国の繁栄を見届けつつ異国の土のなっていった。





それにしても、祖国のために尽くす、戦う、命をかけるとはどういう事だったのか。あるいは何なのか。戦後50余年が経ても、毎年7月頃になると日本の、祖国の、新聞紙上にテレビの画面に見聞きする「靖國」の二字、「公」「私」の二字。いまの日本を世界に誇りとするならば、国際社会の一員として海外で無名戦士の碑、墓に花束と黙祷を捧げるのならば、なぜ靖國神社の英霊にもそれをして上げられないのか。

あの静かな境内で玉砂利を踏みしめ、その音を聞きながら、胸を熱くしてそう問わずにはいられなかった。





平成13年11月25日 戦友連394号より


【戦友連】 論文集