主権回復五十周年に寄せて



明星大学教授  小堀 桂一郎




平成十四年は昭和の年号を延長して考えると昭和の七十七年である。すると、幼児でもする様な簡単な引算で、ああ昭和二十七年から算えてもう五十年が経過したのか、との感慨が湧いてくる。そこで、ではその昭和二十七年とは如何なる年なのか?との反問を寄せられる向も多いのではなかろうか。実はその様に、この年度についての記憶が世の人々の間に薄れ、曖昧なるままに打ち捨てられているのではないか、という危惧こそが、筆者が斯かる一文を草する動機なのだが―――。

以下のことは、既に種々の機会に筆に又口にしていることではあるのだが、それでも(はばか)らずに(ここ)に又反復させて頂く。






昭和十六年十二月八日から数えて三年八ヵ月にわたる大東亜戦争を、激しく苦しく戦い抜いた挙句に、昭和二十年八月十五日、我が日本帝国はポツダム宣言という連合国共同の降伏勧告受諾を内外に声明し、休戦協定の締結に同意した。日本政府の休戦同意声明後における、ソ連軍の千島列島侵攻を始めとする樺太及び満州国全土での暴行掠奪行為を除けば、確かにこの日を以て彼我の間の戦闘行動は形の上では停止された。休戦の同意はやがて九月二日に東京湾に進入してきたアメリカの戦艦ミズーリ号艦上での停戦協定調印を以て文書化され、国際条約の形を以て確立した。

近代戦争に於いて初めての敗戦を経験した日本人は、偏にその経験不足に禍され、この調印を以て戦争それ自体が終わったものと錯覚した。そして、全日本軍への停戦を下命され政府に対して終戦手続きに入ることを命ぜられている昭和天皇の詔書を奉戴したその当日を以て、これが終戦記念日なりと認識してしまった。






この錯覚がもたらした禍の根は深く、大きかった。二十年九月に始まった米軍に寄る日本全土の軍事占領という事態は、実際には戦争の継続であり、全軍の武装解除により今や軍事的抵抗力を失った日本国に対する米軍の追撃戦は、謂わばやりたい放題の苛烈なものになったのだが、戦争は終わったものと誤って思い込んだ日本国民には、敵の酷薄な戦意と憎悪が眼に入らなかった。そして軍事占領という日本国の国家主権停止状態の下で、次々と実現を強要されて行った占領行政の敗戦国処理方策を、戦時体制からの解放という形をとった政治及び社会体制の改革なのだと無邪気に信じ込んでしまった。

占領政策というなの対日追撃戦の中で最も敵意が露骨で且つ暴力的な残酷さを帯びていたのは、極東国際軍事裁判(通称東京裁判)を頂点とする所謂戦争犯罪裁判だった。これは日本国内に設けられた法廷のみならず、支那大陸と東南アジア海域の諸島に設けられたそれの結果をも合算すると、合計千六十八名の法務死(刑死)と多数の獄死による犠牲者を出した。しかしこの件についても、日本人はこれを戦時国際法の規定に基づいて実施された合法的な戦後処理の一環だった、との宣伝に否応なく納得せしめられてしまった。






米軍による日本占領の基本方針は、一言にして言えば日本の弱体化である。二十世紀初頭、日露戦争後の国際社会におけるアメリカ合衆国の長期的世界戦略の実現にとって、最大の障害としてその途上に立ち塞ったのが時の戦勝国日本である。この日本に対する米国政府の思惑は、これも簡単に言えば「邪魔者は除け」の一語に尽きる。非欧米世界で唯一の軍事的強大国となっていた日本を打倒するとの目標は、昭和二十年を以てともかくも達成した。次はこの日本が米国の世界戦略及び西欧白人諸国の帝国主義的世界経営に対する抵抗者としては二度と立ち上がることが不可能なほどに、此の際徹底的に叩きのめしておくことである・・・。






しかし、勝利に傲る者の栄華は久しからず、米国は、かの極東国際軍事裁判の法廷がその審理を完了せぬうちに、早くも己が犯した世界戦略の上での大なる誤謬に気づかざるを得ないはめとなる。つまり冷戦の開始である。

日本打倒のためには、日本との軍事同盟国であるドイツと戦っているソ連を味方に引き入れ、北方から日本を挟撃すべき加勢に頼むのはごく自然の戦略である。米国はただ自らの受ける損害の軽減、戦力消耗の防止という打算的見地からソ連邦の対日参戦を催促した。ところがスターリンのソ連はルーズヴェルトの弄する奸策のはるか上をゆくとんだ喰わせものだった。東京裁判法廷で見せたソ連判事と検事団の厚顔無恥は、西欧の水準から見れば所詮未開国並みであった。邪魔者日本を打倒した以上、合衆国には遂に待望の支那大陸への進入路が開放され、四億の民が蠢く宏大な大陸への市場への参入が目前に迫った、と思いきや、蒋介石政権は共産軍に追い立てられて、盟友合衆国を恩誼ある庇護者として大陸に迎え入れるどころか、自らがほどなく台湾への蒙塵を余儀なくされる始末である。

決定的な衝撃は、言うまでもなく一九五〇年六月の朝鮮動乱の勃発である。極東米軍の最高司令官であり、日本全土を自らの支配下に置き、日本国政府よりも天皇よりもさらに上なる権力を掌握して、傲然と東アジアの一角に君臨していたD・マッカーサーは、この期に及んで初めて、自らが代表としていた合衆国の基本戦略の誤謬を悟った。具体的に言えば、ルーズヴェルトの犯していた誤りに気付いた。アメリカにとっての真の宿敵は必ずしも日本ではなかった。より警戒すべきはソ連に発祥し、今東アジアに恐るべき勢力を浸透させつつある共産主義者達だったのだ―――と。






既に東京裁判の開廷中に、アメリカ国務省政策企画部長としてマッカーサーの占領行政の実情を視察に来た賢い外交史家のG・ケナンが警告していた。―――マ将軍の司令部には多くの左翼が潜り込んで画策していることに気が付かないのか、将軍は日本を共産主義者による乗っ取りに任せるつもりなのか―――。

市谷台の法廷ではW・ローガン弁護士が、重厚な学術論文の様な質の高い日本弁護論を展開していた。―――日本は好んで戦争に起ち上がったのではない。日本を追いつめて、遂に戦争に訴えざるを得ない窮地にまで陥れたのは他ならぬ米・英・蘭諸国による経済的圧迫ではないか。経済封鎖は火器を用いない戦争である。日本は不戦条約も認めている「自衛」のために武器をとったのだ―――。

更にマッカーサーにとって衝撃的だったのは、賢い女性の東洋学者、H・ミアーズの論著『アメリカの鏡・日本』だった。―――日本は、自ら文明の先駆者を以て任じ、日本に乗り込んでこの国を文明化しようと鋭意努力したそのアメリカ人の教えの通りに振舞ったのだ。日本はアメリカ十三州の独立宣言が教えた通りに、生命、自由、幸福を追求する権利を行使したのだ。すると教師なるアメリカは怒って懲罰の挙に出たのだ―――。

これらの忠告・警告にマッカーサーがどの程度真剣に耳を傾けたのか、彼の内心のことはもちろん知る由もない。だが、朝鮮動乱という明白な共産主義者の侵略・征服の暴挙に接して、彼が賢人達の言葉に思い当たり、愕然とし眼が覚める様な思いを嘗めたであろうことは疑い様がない。周知の如く翌昭和二十六年四月、対中共戦略の上で国務省と意見が対立し、あっさりと国連軍・極東米軍総司令官の地位を解任された彼は、五月、上院の軍事外交合同委員会での聴聞会の席上、今では甚だ有名になった日本の自衛戦争論、及び「アメリカ誤てり」の判断を証言して世界の注目を浴びる。いずれも先に名を挙げた三人の賢人の意見を受売りした如き形である。マッカーサー証言の意味の重さを未だに理解できずにいる知識人は、世界広しといえども他ならぬ日本の所謂進歩的知識人と親中派政治家ぐらいのものであろう。






そこでアメリカはどうしたか。日本との平和条約を早く締結し、その主権国家としての独立回復が急務であることを深刻に認識した。日本打倒戦略自体が誤りであったことは今更取り返しのつけ様がない事態である。しかし、日本を完全武装解除したこと、只管(ひたすら)その弱体化を図り、王道を尊ぶ戦士の精神を壊滅に帰せしめ、自らの存立に自らの責任を担う意識すら欠いた「未成年国家」におとしめたことは更なる大失敗であったが、この方はまだ取り返しをつけることができる、と考えた。この心理的な姿勢の変化の具体的表れが、昭和二十六年九月九日のサンフランシスコに於ける平和条約及び日米安全保障条約の調印である。

この条約がそれとして効力を発生したのが、昭和二十七年四月二十八日のことで、即ち今から丁度五十年前なのである。此を以て彼我の間の国際法上の戦争状態は完全に終了し、真の意味での「終戦の日」が実現した。こうして日本国が、もはや被占領国ではない、独立の主権国家としての地位を国際社会に於いて回復してより、平成十四年で五十年を経過したことになる。






この五十年、過ぎてみれば(まこと)に短い、一弾指の間とも思えるのだが、翻って思えば、我が国は今なおその独立主権国家としての尊厳を身につけることができず、制定命令権者マッカーサー自身にとってさえ悔恨の種となった占領憲法第九条の呪縛にいまだに喘いでいる。このような祖国日本の現状に対して、五十年経っても未だにこの呪縛を絶ち切ることができないのか、との嘆きが心底から湧いてくるのを我々は止め様がない。しかし、ただ嘆いてばかりいても仕方がない。この五十周年を節目として、我々はここで、近隣諸国の内政干渉に政府が右往左往する、その醜態を国民はもう見たくないのだ、との声をあげようではないか。






それと共に、国民一人一人が真摯な現代史の考察の最重要の一項目として取組むべき課題がある。それは六年八ヵ月にわたるあの軍事占領という名の戦争継続中に、我々が奪われたものは何であったか、独立回復の後に、何故にそれらを取り戻して日本人本来の面目に立ち返るという努力を怠っていたのか、そのことを改めて真剣に考えてみるということである。占領期間という日本精神史の空白の中に、我々が置き忘れたままになっている多くのものが見つかるであろう。

半世紀以上も昔の忘れ物を、今更探しに引き返したからとてどうなるものでもない、という意見の方もあるかもしれない。だが、これは決して無駄な作業ではない。我々の本来の所有のうちの何を奪われたのか、抑々記憶にもなく教えられてもいない、という世代が今国民の大半を占めているのである。本年のこの節目の年を以て、我々は国民の記憶を回復し、奪われた歴史の復権を図る(とき)としようではないか。

(了)

(注) この記事は月刊「やすくに」の本年1月1日号より転載しました。






平成14年1月25日 戦友連396号より


【戦友連】 論文集