我が祖国この儘でよいのか
― 沖縄の戦跡を巡拝して思う ―





英霊にこたえる会運営委員
 田中 賢一







毎朝、新聞を拡げれば贈収賄の記事が載っていないことはない。正に政界は黄金塗れ、金色夜叉は永田町界隈を右往左往している。議会制民主主義というが、党利党略私利私欲に右顧左眄し、天下国家の重大事は一向に進捗しない。かくして外からの侮りをうけている。

何故このような態たらくになったのか。国の要路に立つ者悉く戦後の誤った教育を受け、その多くが洗脳されてしまったからである。国民の多くもこれと同断、己あって国家あるを知らず、権利あって義務あるを辨えず、現世代あって先祖あるを覚らず、価値観の転倒驚くべきものがある。

これを矯正する方策は多々あると思う。大は憲法改正から東京裁判史観の払拭もあろうが、戦友連の一員として身近なことで為しうるのは、国に殉じた戦友と、我々が嘗て抱いてきた精神を世に確かと伝えることである。

前大戦の末期に現出した特攻隊の烈士たち、その崇高な滅私奉公の精神は世界に比類がない。私は特攻戦没者慰霊協会の一員として、年四回出す機関紙の編集を担当しており、特攻烈士の事績を世に鼓吹しているが、今回、協会の計画で沖縄に在る特攻の遺蹟を巡拝してきたので、詣でたところの感懐のいくつかを紹介しよう。




■摩文仁の丘にある義烈の碑



この碑を建てるとき私は聊か係わったが、臥牛のようなこの大きな石は、発進地熊本健軍飛行場の西に聳える金峰山から掘り出して運んだ。そして「義烈」の文字は、隊長奥山大尉の遺書にある肉筆を拡大して彫り込んだ。

何回も来た所であるが、この度は碑に向かい一文を奏上した。同行の四十人も並んで聞いてくれた。




義烈の御霊に捧ぐ

戦熄んで半世紀余 ここ摩文仁の丘に登れば 連なる塔碑のもと猶ほ魂魄の漂ふをみる 摩文仁は沖縄戦終焉(しゅうえん)の地なれば 戦没の英魂悉くここに集まる。皇土守護の一念に燃え国に殉ぜしをのこ 就中義烈の烈士 身を捨て航空特攻の成果を挙げしめんとせしなり

昭和二十年五月二十四日夜 読谷飛行場の混乱振り敵の無線傍受により彷彿たりき 然れども大厦の倒れんとするや 一木の支うるところにあらず 悲願空しく戦敗れたり 往時茫々たれど 奥山 渡部 宇津木の面影 我が瞼に消えることなし 朗々たる音吐我が耳朶に存す 下士官兵の面々 個々の面識なけれど 次の遺詠は我が肺腑を穿つ


 よしや身は千々に散るとも来る春に
     また咲きいでん靖國の宮

(関  三郎 軍曹)

 奥山に名もなき花と咲きたれど
     散りてこの世に香りとどめん

(今村 好美 曹長)


嗚呼 崇高なる哉 その精神
  富む春秋国に捧げし友垣に
    済まぬ思いの八十路かな


我既に余命尠しと雖も 嘗て共に抱きし志を失うことなく 諸霊が歩みし路を世に顕彰せんとす 乞う (みそなは)せ給え




■読谷飛行場あとに立って


「義烈空挺隊玉砕の地」という
コンクリートの碑が立っている。



ここはまだ米軍管理下にあるという。以前は滑走路の跡が認められたが、今は地域内を一巡する一本の舗装道路の外は、黙認耕作の砂糖黍畑になっていて、昔の面影はない。しかし眼を閉じて往時に思いをいたせば、かの唐瀬原で共に武を練ったゆかりの深い人達の、阿修羅の如き活躍が瞼に浮かぶ。

砕け散る地上の敵機、爆発する集積燃料、逃げ惑う敵兵。それらのことは昭和二十年五月二十四日、熊本健軍飛行場通信所敵信傍受班の多忙振りによって知ることができる。敵は火急の場合生文で放送する。最初に入ったのは二二四五である。

「北飛行場異変あり」

奥山隊長から只今突入の無線(多分着陸コースに入った意味だろう)が入ってから三十四分後である。その後敵の電波は乱れ飛んだ。

「在空機は着陸するな」

「島外飛行場を利用せよ」

「母艦に着陸せよ」

「残波岬の九〇度五〇浬に着艦せよ」

米軍の混乱振りを伝える資料として、米国のある書物の一節

・・・・・この全く信ずることのできない突発事と、それに続く混乱の模様を、くわしく書くことはむずかしい。なぜならば、その大部分は話から話に伝わってゆくうちに、真実がわからなくなってしまったからである。・・・・・

米軍の資料によれば、無事着陸したのは一機という。その一機に全員の精神が凝集していたのだ。




■「空華之塔」に寄す

この塔は前述「義烈の碑」の裏側にある



沖縄には、慰霊の塔は全島に数え切れない程あるが、航空関係のものは極めて少ない。航空同人は「雲」を墓標と思っているのか・・・・・。

少ない地上の墓標の一つに「空華之塔」がある。空華とはよくも名付けたものだ空に散華した人達の霊がここに籠っているのか。摩文仁台上の一番高い所に、南向きに建っている。

陸海軍航空部隊はここを先途と戦った。特攻を主体とする我が航空戦は、初めは敵を押し切るかに見えたが、やがて物量に圧倒され敗れ去った。しかし特攻という世界戦史に類を見ない攻撃精神は、燦として輝いている。

初めの頃の我が航空攻撃の凄まじさについて、米海軍の従軍記者は次の通り報告している。

―――敵機の攻撃は昼も夜も絶えたことがない。慶良間の錨地は損傷艦で埋め尽くされ、太平洋至る所、跛を曳く艦船の列が東へ東へと進むのが見られた―――

―――悪天候が時々の休息をあたえてくれる以外は、特攻機が連日連夜襲ってくるために休む暇はない。眠るといっても、夢まぼろしの間に身体を横たえているだけである。警報が発せられると水平共は癇癪を起こし、「モウ止めてくれ」と叫び全員がヒステリー状態だった―――

航空の英雄は今の日本人に言うだろう「お国を守るということは、容易なことではないぞ」と。




■「飛行第十九戦隊特攻之碑」に思う

この碑は「空華之塔」の横にある



台湾の第八飛行師団に属するこの戦隊(三式戦装備)は、沖縄戦で二十二名の操縦者を失い、内十七名が特攻戦死である。その一人、大出博紹少尉(特操1期)の突入の模様を、直接の渡部国臣少尉(57期)が大出少尉の両親に次の通り報告している。

四月十一日、勇躍多くの人に送られ基地宜蘭を発って一路沖縄へと進攻しました。大出君は攻撃間私の僚機につき、発って帰らぬ首途へ従容として居られました。進攻間僚機の位置にぴったりとつき、手を上げて笑って居られました。薄暗くなった頃漸く敵機動部隊を発見、白い航跡をくっきり残して進んで行くのが見えました。丁度右下で、対空砲火は忽ち二機を包んでしまいました。この時私が翼を振り合図するや、大出君は私に近づき莞爾として手を振りつつ反転して、最も大きな巡洋艦に真直に突込んで行かれました。瞬間黒煙天に冲し、艦は真黒い煙の中に包まれてしまいました。攻撃間幸いに敵戦闘機には全然遭遇せず、攻撃は成功したわけであります。私は言葉には言い表すことの出来ない淋しい気持でありました。我々も直ぐ後に続きます。出動も間近に迫っております。

乱筆お許しください。

陸軍少尉  渡部 国臣

これから一一日後の四月二十二日、渡部少尉も特攻散華している。



これらの史実、後世に伝えねばならぬ。




■安保の丘に登って



嘉手納基地の北に、安保の丘と呼ぶ高地がある。そこにのぼると、広大な嘉手納基地の飛行場部分が一望のもとにみえる。嘗ての中飛行場はその一部だった。

敵上陸の四日前、ここを発進し群がる敵機に突入した誠三二飛行隊の隊長広森中尉は、こう言ったという


「愈々明朝特攻だ、いつものように俺について来い。
次のことだけはお互いに約束しよう。
今度生れ替わったら、そしてそれが蛆虫であろうとも、国を愛する誠心だけは失わないようにしよう」

東亜安定の要となっている基地を巡るフェンスの中に、このような秘話があることを、知る人ぞ知る。




■「陸軍水上特攻艇」の洞窟を見る



嘗て特攻艇の基地だった渡嘉敷島に行き、往時を偲ぶ碑や遺跡など見て廻ったが、その一つ特攻艇○〔入力注:丸の中に「レ」〕の壕をみた。

必定を期して穿ちし岩穴に
     行きにし歳をしのぶ草かも

十字鍬だけで掘ったという。その努力には感動を通り越して涙さへ覚える。

ところが、本島上陸に先だちこの島が敵の猛攻をうけ、企図秘匿のため艇を自沈するに至った。海上挺進隊は乏しい兵器をもって地上戦闘に移行し、多くの戦死者を出した。

赤い血で染めて咲きしかハイビスカス
     いく歳経るも思いせつなし



日本人の心を失った日本国籍を持つ人々よ。此等の場所を巡礼し、汝等が血の中にある日本人の心を取り戻せ。





平成14年7月25日 戦友連402号より

【戦友連】 論文集