小泉総理に再考を促す
八月十五日にも是非靖国参拝を








去る四月二十一日(清め祓の日)の早朝、小泉総理は何の前触れもなく靖國神社に参拝し、「国のために尊い犠牲となった方々に対する追悼の対象として、長きにわたって多くの国民の間で中心的な施設となっている靖國神社に参拝し、追悼の誠を捧げることは自然なことと考えます」との所感を発表し、昨年八月の前倒し参拝時の談話にはなかった靖國重視の姿勢を打ち出した。が同時に、この八月は参拝はせず、年一回の参拝は欠かさないことも明らかにした。

中曽根総理の参拝中断以来タブー視されてきた靖國問題に、風穴を開けた小泉総理の勇断を評価することに吝かではないが、中国や韓国に(おもね)ってか、いま一つ腰が引けている感を否めないのはまことに口惜しい限りである。







戦後、八月十五日に参拝したのは昭和五十年の三木総理(当時)を嚆矢とする。しかし時の流れに敏感な彼は「私的参拝」なる新語を作り、以来ジャーナリズムに無意味な「公的」・「私的」参拝の踏絵的リトマス試験紙の道具を与えた。

もともと、内閣総理大臣の靖國参拝に公私の区別などありようがない。殉国の英霊を祀る宮代(みやしろ)に、国の統治責任者がお参りするのは公人であるべきことは理の当然である。にも拘らず中曽根総理は、訳知り顔に我こそは戦後靖國神社公式参拝の第一人者と公言し、通称『靖國懇』の藤波官房長官(当時)の答申に応えて、神道儀式を無視した傍若無人の『一礼方式』であれば違憲ではない、などとの屁理屈をつけて参拝し、総理の参拝を渇仰して止まなかった日本遺族会はじめ我々戦友連靖國推進派の一時の溜飲を下げたことは、思い出すにも腹立たしい。

靖國参拝を政治問題化し、日本恫喝の「歴史カード」の切札を中国に与えた張本人は、他でもない中曽根大勲位その人なのである。中国から非難を浴びるや、「A級戦犯の合祀は知らなかった」と平気で虚言を吐く破廉恥漢。先述の藤波『靖國懇』では、いわゆる「A級戦犯」にも論及しているのである。そして「A級戦犯」の分祀を画策したのも彼である。







ここで一寸脇道に入るが、八月ともなれば「正論」[諸君」等のオピニオン誌の紙面は、靖國特集号の記事満載の観を呈している。その中で「諸君」は、「総特集・靖國神社」のタイトルで、36人の著名人に十問十答のアンケートを試みている。設問の一つ、『A級戦犯』分祀に賛意を表したのは七名で、中曽根もその一人だが、その他六名は反靖國派であることは言うまでもなかろう。又参拝する場合何時が適当かについて、約半数の16名が八月十五日と答えているが、中曽根は「例大祭又はその日の前日」と答えたのに対比して、西尾幹二氏は「本来なら春秋例大祭でよいと思うが、八月十五日が問題化しているので、これが実現し、外国の干渉が消え、八月十五日参拝がごく普通になる日まで、日本としては終戦記念日にこだわらざるを得ない」と答えていることに注目したい。

更に付け加えれば一般的に先の大戦を侵略戦争と容認したのは細川元総理が最初と認識されているが、実は中曽根康弘がそれ以前にこれを認めているのである。「風見鶏」とはよくいったもので、彼の歴史認識は時と場合、相手によって変幻自在で、そのペースは常に自己顕現にあるとみてよい。







さて、話しを本筋に戻そう。昨年八月の参拝に引き続き今年の四月に継続して参拝し、約束違反だと中国の江沢民国家主席の激怒を買っても、少なくとも年一回は靖國参拝を行うと明言している小泉総理が、中曽根の二の舞いを演ずることはないと信じて疑わないが、「八月十五日参拝」は公約であり、たとえ今年は見送ったとしても、来年は必ず実行して貰いたい。一時は大騒ぎになるだろうが、外国には何とでもいわせておけばよい。問題は国内の抵抗勢力だ。その時は伝家の宝刀を抜いて衆議院を解散し、靖國問題―国家理念の中心課題―を対立軸として国民にその信を問えば良い。西村眞吾自由党代議士会長の言ではないが、英霊のお加護の下多くの国民の支持を得て、長期小泉政権の維持も決して夢ではない。







最近保守論壇で売れっ子の中西輝政京大教授は、「正論」九月号で、日本の「心臓部」は靖國問題にありとして、この二月来日したブッシュ大統領の靖國参拝意向を阻んだのは、日本外務相であるとの伝聞を紹介した後、「アメリカ側が『日本人は堂々と靖國神社に参拝し、これからは国家としての基礎を再考すべき』と考え始めており、『マッカーサーが出した神道指令は間違いで、中国の言うがままでは日米関係もおかしくなる』。あるいは『国家としてそろそろ目覚めてもらいたい』というメッセージを日本側に送っていることは間違いない」と述べている。

一方教授は「諸君」の九月号でも、戦没者慰霊は国家アイデンティティの心臓部に位置する事柄であると述べ、昨年の小泉総理の「前倒し参拝」を辛辣に批判するとともに、八月十五日に参拝した石原都知事の堂々たる参拝に最大の賛辞を惜しまず、石原慎太郎新総理の待望論を展開している。







尚且つ「いまの日本が必要としているのは、吉田茂、岸信介、あるいは中曽根康弘といったクラスの政治家である。このことは誰であれ異存はないであろう。」と断言しているが、私はおおいに異存ありで、この中から中曽根康弘を除外しない限り絶対に納得しない。確かに昨年の「前倒し参拝」やその後の談話は許しがたいことではあるが、小泉総理の本心は、前後の事情から察して「八月十五日参拝」にあったことは間違いなく、これを阻んだのは福田官房長官や山崎幹事長ならびに田中真紀子前外相等の親中派の君側の奸であり、小泉総理は彼らに抗し切れなかったことを深く反省し、靖國問題をはじめ国家の独立主権侵害に関する重要事項については、絶対に妥協することなくその決意を閣僚・与党はもとより国民の前に明言し、実行しなければならない。

そして総理の靖國神社参拝を定着させ、ご親拝の道を切り開き、戦後の幕引役を務めてもらいたい。率直に言って、正体が掴めない小泉総理だからこそ、その可能性大とみるが如何だろうか。その世論の喚起は我々国民の務め、反対勢力には断固闘う。







最早紙数も尽きた。最後に、最近『靖國のこえに耳を澄ませて』を発表した打越和子氏の、昭和天皇の崩御の前年の八月十五日の先帝陛下の御製『やすらけき世を祈りしもいまだならず くやしくもあるかきざいみゆれど』の解釈論に痛く感動したので、その言葉を引用して結びとしたい。「御製の『やすらけき世』というのは、死者にとって安らかな世ということなのだ。戦没者に対して心一つに祈ることが出来ない今の日本のありさま、死者の声をありのままに聞くことが出来ない人々であふれかえった国、『死者にとって安らかな世』は『いまだならず』ということは明らかであり、それを毎年、昭和天皇はみたまに詫びておられたのではないだろうか。




(八月十二日   佐藤 博志  記)








平成14年8月25日 戦友連403号より

【戦友連】 論文集