『源泉に立ち戻れ』ということ





上智大学名誉教授 渡部 昇一







文献研究の分野では『源泉に立ち戻れ』ということが重要とされている。初版から、あるいは原稿があればそこから変遷のあとをたどることが、議論の基礎になる。いいかげんなテキストをもととして議論してもはじまらない。






それと似たようなことが靖國神社問題にあるのではないかと思う。靖國神社の一番のもとは、国の為に命を捧げられた霊魂を(まつ)ることに盡きる。その時の祀る側の気持は、三井甲之の歌が本質を示しているように思われる。


もののふの かなしき命
積み重ね 積み重ね護る
大和島根を


国を護るために「かなしい命」を捧げられた人々の霊を祀るのだ。「かなしき命」は「(かな)しき命」と考えても「悲しき命」と考えてもよいであろう。

こういう慰霊をしようとした時、明治以来の日本人は「神社」の形式を自然に採用した。日本には仏教があったが、仏教には現実問題として宗派がある。神社は祭神だけが問題で宗派を超越できる。だから靖國神社には、戦前は反対がなかったのだ。戦死者が出れば、その人はその地方の護国神社に祀られ、また同時に自分の家の菩提寺に祀る。そこに何の不自然も感じられなかった。護国神社では超党派に「日本の為に死んだ人」として祀られるし、菩提寺にはその家の宗教・宗派に従って祀られる。何の問題もないはずだった。

このことはビッター先生もよく御存知だったのだ。この方は上智大学教授のカトリックの神父で、私も四十七年前にドイツに留学する時にお世話になった方である。そしてよく知られているようにビッター教授は、靖國神社を取り壊してドッグ・レース場にしようという占領軍の計画を取りやめにさせた人である。マッカーサーに直接説いたのだそうであるが、マッカーサーも軍人であるから、戦死者の慰霊のための超宗派的神社を認めたのである。だからこそ占領下においてさえ、首相の靖國神社参拝が問題にされることはなかったのであった。ビッター神父のお考えでは、カトリック信者が靖國神社に祀られていても少しも問題はなかった。彼の家庭ではその信仰にもとづき、葬儀のミサを取り行えばよい話なのだ。丁度、普通の日本人の家庭が菩提寺で葬式でもやるように。






その靖國神社に文句を言っている勢力が、大きく分けて三つあると思う。一つは国内の左翼諸団体である。(最近はキリスト教会でも反日左翼味とみたいなところがある。)第二はコリア、第三はチャイナである。

左翼は基本的に皇室も廃止したい連中だから、すべての神社に反対なのだが、攻撃しやすい靖國神社を今のところ目標にしているわけである。コリアの反対は「何でも反日」というだけで、苦しい点もある。大東亜戦争において日本とコリアは敵ではなく、同じ国として戦ったのであり、戦死者―――特攻隊員さえ―――もいるからである。中国は日清戦争以来の恨みと、靖國神社を外交に使えるからである。

しかし彼らの靖國神社反対の唯一の根拠は、日本は侵略戦争をやったのであり、しかも戦犯とされた人も祀られているからである、ということだ。この根拠がないことを示すことこそ、隣国に対する『源泉に立ち戻れ』の姿勢なのである。ある作者の作品に対して議論がなされる時、その作品が全くの贋作であることが証明されれば、そのテキストの細かい解釈などは問題にならなくなる。






では日本を侵略国と決めたのは誰か。それは極東軍事裁判(東京裁判)である。

では東京裁判の裁判権あるいは管轄権はどこから生じたのか。国際法にもとづくのか。(いな)それは国際法に関係なく、占領軍の最高司令官であったマッカーサー司令部の命令にもとづく。このことは、東京裁判の冒頭において清瀬弁護人もウェッブ裁判長に問いただしたが、答えがなかったのである。ところが、東大の国際法の教授で後には最高裁判所長官になった横田喜三郎氏は、東京裁判は国際法に合致するという趣旨の主張をしていた。(後にその本は回収されたらしいが、私は一冊もっている)占領下の曲学阿世の標本と言うべきである。






更に重要なことは、この東京裁判をやらせたマッカーサー自身が、後に公式の場で、「日本がこの前の戦争に突入したのは主としてセキュリティのためだった」と証言していることである。これは昭和二十六年の米国上院の軍事外交共同委員会での発言で、その大演説は当時のニューヨーク・タイムズに全文が載っているから、世界の人が知りうる情報であった。この中で東京裁判をやらせたマッカーサー自身が、日本がやった戦争は「セキュリティのためだった」と言っていることが超重大である。セキュリティという英語は「自衛のため」とでも「生存のため」とでも訳せるが、要するに、日本は侵略戦争を起こしたのではない、と言っていることなのだ。

そうすると必然的に、戦犯処刑もやってはいけないことであり、誤審以前の問題ですらある。つまり、このマッカーサー証言で、「戦犯国日本」とか、「侵略国日本」ということに関係して行われる言論も行動も、すべてパーになるという意味である。これこそ、いわゆる靖國問題の『源泉に立ち戻れ』ではないだろうか。






去年の夏、小泉総理は八月十五日参拝の公約を破って予定を前倒しにした。それも、国民から見ると、「何と卑屈な」という態度であったが、もっと本質的に悪かったのは、その後の談話であった。アジアの諸国にご迷惑をおかけしたことを詫びる、という趣旨の発言である。これでは慰霊にならず侮霊である。「靖國神社に祀られている英霊たちは生前悪いことをしたから、自分があやまる」という形になっているからだ。(幸いに今年の参拝後にはこの種の発言がなかった)これも、日本が侵略国であり、戦犯国だという「思い込み」から生じたものであるから、マッカーサーがそういう東京裁判を実質的に取り消していることを知っておれば、そんな発想は根切りにされるであろう。

したがって、われわれが国民運動としてやるべきことは、かのマッカーサー発言をNHKに取り上げさせることである。八月十五日前後でもよいし、十二月八日前後でもよいであろう。もしNHKが一時間ぐらいの特別番組で「その時マッカーサーはこう語った」というような放送をしてくれれば、全日本人の意識が根底から変わるのである。つまり、日本人が戦後のいろいろな問題の『源泉に立ち戻る』ことができるのである。






そうすると、昭和二十年八月十五日以降、昭和二十七年四月二十八日までの日本は、占領下に置かれていたのであり、国家としての主権がなかったことも明瞭に意識されるであろう。そして主権なき時期に作られたすべての法律は―――憲法や教育基本法も含めて―――すべて本質的に無効であることがわかるのである。あの期間、日本に主権がなかった最もいい証拠は、日本国内で、日本の法律によらず日本人が裁かれ、死刑―――東京裁判による―――も行われていたことである。つまり新憲法すら占領政策として占領軍が日本の議会に賛成させたものだったこともよくわかる。占領期間に、占領軍の命令や承諾なしに作られた法律は一つもないのであるから、それは占領が終われば、つまり独立が恢復すればすべて無効なのである。すべて新しく作る必要があるのだ。明治維新になれば、徳川時代の掟は本質的にすべて無効である。新法ができるまで残されるものがあるだけだ。アメリカが独立すれば、それまでのイギリスの法律は無効だし、韓国が独立すれば、日本と併合されていた時代の法律は無効だし、ドゴールがもどってくれば、ヴィシー政権の法律は無効になる。当たり前のことではないか。もし占領期間の法律でもよいものがあって、そのまま残したいというので、そのまま残すにしろ、日本国の主権の下に再制定したとしなければならない。






ここまで源泉にもどった時に、まともな歴史観が出てくるのである。そして次のような仮定も、無理なくすべての小・中学校で教えることができるのだ。

もし日本という国がなかったら、あるいは日露戦争に敗れていたならば、世界はどうなっていたか。満州や遼東半島(大連・旅順もそこにある)はすでに帝政ロシア領になっており、次に朝鮮半島は百パーセントの可能性をもってロシア領、つまりコリアスタンみたいなものになって今日に至っていたであろう。北シナも、黄河あたりまでは北京も含めてロシア領になっていた可能性は八〇パーセント以上ある。揚子江流域はイギリスの支配権にあり、山東半島はドイツ領、広東周辺から雲南省にかけてはフランス領、福建省あたりはアメリカ領になっていたであろう。中国統一などは夢物語以前で、シナ大陸はかつてのアフリカの如く、ケーキをナイフで切りわけるように欧米列強が切りわけていたことであろう。(孫文らの革命自体が、日本が日露戦争に勝ったために現実化したのだ。)つまり今の中国首脳も、日露戦争の戦死者に感謝の意を表するために、靖國神社を訪れてもよいのだ。






シナ事変は不幸な事件であったが、あれは日本が計画的に始めたものでなく、しかけられたものであった。これは日本を裁くための東京裁判ですらも、「開戦責任」を日本に求めることができなかったことからも明らかである。だから小泉首相は盧溝橋へいって謝罪すべきでなく、謝罪を受けるべきだったのである。その後拡大した戦争については、遺憾の意を表すればよい。盧溝橋での現地停戦協定が成立した約二週間後に、通州で日本人が二百人ほど虐殺されている。そこにも首相は行って、花でも捧げるべきだったのだ。アメリカだって、日本にいるアメリカ人の軍民が二百人も殺されたら、すぐ軍隊を送ってくるに違いないのだ。満州事変のことを持ち出されたら、満州はチベットやウィグルと同様、シナ民族の地でないことを指摘すればよい。こっちがそれだけの姿勢と知識があると知れば、北京政府だって靖國神社のような国内問題、しかも宗教問題に口を出すことはないであろう。彼らがゆさぶりをかけるのは、こっちの要人が無知だからである。国のために戦死した方の霊を弔うことを、天皇や首相が公式にできない日本にすることは、中国にとっては、時刻が五十個師団ぐらい増兵した以上の軍事効果があるということなのである。今後の日本が「ゆすり」みたいなことをされないためには、『源泉に立ち戻る』ことが肝腎・要である。

(了)



(注)  この記事は月刊「やすくに」の本年7月1日号より転載しました。







平成14年8月25日 戦友連403号より


【戦友連】 論文集