忠魂永遠(とわ)に讃えん





世田谷区 佐藤 達雄 (八飛会)







先日私の友人が、「兄が書いたこんなものが出て来たのだが、読んで見てくれないか」と言って持って来た。見ると知覧(ちらん)特攻のことだった。知覧(鹿児島県)には、昨年十月に八飛会の総会を熊本ですませ、翌日知覧へ行って特攻観音にて法要をすませて来たので、早速読んで見た。読んでいるうちに胸うたれることばかりで、涙が出て仕方がなかった。

特攻隊のことは、表面的には知っていたが、これほど身近く出撃までの様子を記したものは見たことがない。英霊の気持を一人でも多くの戦友諸兄に感じてもらうことは、最大の供養ではないかと思いますので、ご覧下さるようお願いいたします。

(佐藤達雄)




忠魂永遠に讃えん
        木牟礼民男 記す



日本は今、とても平和で自由で豊かである。然しその陰には、みずからの生命を祖国に捧げて、守護してくれた英霊達があった事を忘れてはならない。だが戦後既に三十九年の歳月は、それらの事実を忘却の彼方に押しやった感じすらうける。

鹿児島には多くの特攻基地跡があり、残された遺書等も、既にインクの跡も消えかかっているのもあり、若く雄々しく多感な、父母に、兄弟に、恋人に思いを馳せ乍ら飛びたって行ったであろう遺影も褐色に変って、時の流れを感じさせられる。

中でも知覧特攻基地跡には記念館があり、隊員達の遺品、遺書等が保存されているが、その近くには特攻銅像が建立され、当時の雄姿を再現している。その当時、知覧高女の生徒で特攻隊員のお世話をしていた人達の書いた『知覧特攻基地』を読んでみると、隊員達の基地での短い生活が、そして出撃の模様が、浮き彫りにされている。それらを幾つか紹介しよう。




○別れ切なし



ある日のこと、搭乗(とうじょう)したばかりの特攻隊員(とっこうたいいん)のところへ息せききって走りよる初老の男の(かた)がおられました。ふたことみこと言葉を交わしてから、着ていた羽織(はおり)の紐をもぎとると、それを隊員に差し出しました。二人は手を固く握りしめたまま身じろぎもしないで、思いを込めた眼差(まなざ)しを交わしていました。その様子(ようす)から、その男の方が隊員のお父様であることがわかり、胸があつくなりました。

やがて羽織の紐を乗せて特攻機は飛び立ちましたが、機影(きえい)開聞岳(かいもんだけ)の向こうへ消えたあと、乱れた羽織姿のままで南の空をいつまでも見つめながら、悄然(しょうぜん)と立ちつくしておられました。

親子のきずなを羽織の紐に託して永遠の別れを告げられたその情景に、私たちは思わずもらい泣きをしてしまいました。

離陸した特攻機は、飛行場の上空を旋回しながら隊列に三機編隊を組み、編隊を組みおえると機首を戦闘指揮所へ向けて急降下しました。そして、みんな一様に三回翼を左右にふりながら最後の別れを告げると、急上昇して開聞岳の彼方へ消えていきました。




○訣別のあかし



見送る人々の中に、御夫婦らしい二人連れが、集結する特攻機を真剣なまなざしで追っていました。御婦人は、誘導路から滑走路に向かっていく特攻機の一機一機に深々とおじぎをしていました。突然、二十五、六番目の飛行機から赤色のテープが投げられ、これに気づいた御婦人は、持っていたパラソルを(ひら)いて大きく左右に振りました。飛行帽を(かぶ)ってしまうと、誰であるのか見分けがつかなくなってしまうので、テープは目じるしだったのです。

特攻機はテープを引きずって出発線に並び、地上滑走のあと、やがて飛びたっていきました。左右に大きくゆれるパラソル、訣別(けつべつ)のあかしとして赤色のテープを流しながら飛んでいく特攻機、その乗員は第四九振武(しんぶ)隊の南部吉雄少尉でした。パラソルを振って見送られた二人は、息子さんを訪ねてわざわざ東京からかけつけていらした御両親だったのです。飛行機が消え去ってからもお二人は、その場にたたずんだまま、いつまでも離れようとしませんでした。




○壮烈! 片手操縦



中島豊蔵軍曹(第四八振武隊)は、昭和二十年四月特攻隊員に命ぜられて、五月二十五日、知覧に着きました。少飛同期の松本真太治(またじ)軍曹とともに最初に(たず)ねたのが、以前知覧(ちらん)に滞在したときから顔見知りになっていた鳥浜とめさんでした。

軍用トラックの上からとめさんの姿を見かけると、急いで飛びおりたために足を踏みはずしてころげ落ち、左腕をくじいてしまいました。出撃が間近かなのにと、とめさんはたいへん心配しました。中島軍曹は「なあに、なおらなければ操縦桿(そうじゅうかん)に手をくくりつけてでも行きますよ」と平気でした。」

中島・松本両軍曹は、出撃までの間、毎日の様に富屋食堂を訪ねました。腕を首につっている中島軍曹の体から、汗くさいにおいがしていました。手が動かせないので風呂にはいれないということでした。とめさんはすぐ風呂をわかして、入れてやりました。

背中を流しながら、とめさんは尋ねました。

「中島さん、出撃はいつごわすか」

「あしたにも命令がでるかもわかりませんよ」

「そげな手じゃ、操縦もできもはんどがな、手がゆなってから出撃しやんせ」

と慰めると、

「おばさん、日本が勝つためには、自分が一刻もはやく行かねばならんのです」

と中島軍曹はキッパリと答えました。その一言にとみさんはこみあげるものがありました。むせび泣きながら背中を流しつづけました。

「おばさん泣いているのか」

「いいや、ちっと、腹が痛かもんで」

はじめて、とめさんは嘘をつきました。

「おばさんも、早く養生して、長生きしてください。見送りにこなくていいよ」

中島軍曹は、当時わずか十九歳、文字通り操縦桿に左手をしばりつけ、翌朝、出撃。再び、帰ってはこなかった。




○哀切胸をうつ



昭和十八年、光山(みつやま)文博見習い士官は、特操第一期生として知覧教育隊で操縦教育を受けました。そのときから、富屋食堂にはよく出入(でい)りしていました。光山さんは朝鮮の(かた)だったので、身寄りが少ないのではないかと思われたとめさんは、自分の息子のように可愛がっていました。

そういえば、とめさんは、それまで貧しい方やいろいろな境遇の方をひきとって、十数名も育ててこられたのです。光山さんにもそんな気持で接しられていたのでした。

学徒出身の特操から任官した光山少尉は、第五一振武隊員として知覧にもどってこられました。とめさんは、以前にも増して温かく迎えました。

五月十日、出撃前夜のことでした。歌を歌っているほかの隊員たちと離れてただ一人、食堂の柱にもたれてぼんやり天井を見ていた光山少尉に、とめさんは「光山さん、ないか歌わんね」と声をかけますと、はにかみやの光山少尉は、帽子のひさしを鼻の下までおろして顔をかくし、低い声で歌い出しました。
アリラング アリラング アラリヨ アリアング とうげを こえてゆく わたしを すてていく きみは いちりも いけず あしいたむ

哀調を帯びたアリランの歌でした。かつて「おばさん、わしは朝鮮人じゃ、わしの父は光山英太郎というんだ」と言われたことを思い出しました。

長い歴史の中で、百年と平和な時代がつづかなかったという朝鮮民族の一人として、いろいろな苦悩を背負って生きてこられたのでしょうが、あすはまた、異民族の戦争のために散ってゆく数奇な運命、ほとんど原語に近い哀しみにみちた歌声が切々と胸にしみこんできました。とめさんはたまらなんくなって、顔を覆い泣き伏してしまいました。光山少尉は歌い終ると、懐から朝鮮の布地で織った黄色い縞の入った財布を取り出し、筆で「贈為(ためにおくる)鳥浜とめ殿 光山少尉」と書きました。「おばさん、たいへんお世話になりました。お世話になったしるしとしてこれしかありません。はずかしですが、形見(かたみ)と思って受けとって下さい」と言って、とめさんに贈りました。光山少尉は、翌日の十一日に出撃したまま還ってきませんでした。―――







平成14年9月25日 戦友連404号より


【戦友連】 論文集