戦友連とともに歩んだ社頭の二十年





英霊にこたえる会中央本部 
運営委員長 倉林 和男   
(元空将補)  







昭和五十七年七月一日、この日は私が警察予備隊入隊以来、三十二年間在職した自衛官を退官する当日で、最後の制服となる礼装を着用し、東京・市ヶ谷の殉職自衛隊員の慰霊碑を訪れたのに引き続いて、靖國神社に退官の奉告参拝を行った。

そして、それから三ヵ月余りを経た十月二十一日、英霊にこたえる会に第二の人生を求めることになるのであるが、退官する十数年前から、次の人生は靖國神社の掃除夫となって奉仕することを考えていたので、防衛庁を通じて神社へ正式に申し入れていたが、結果は受け入れられず、英霊にこたえる会事務局入りとなり、そのことがこの拙文、「戦友連とともに歩んだ社頭の二十年」の出発となったのである。






社頭、訴えの一文




靖國神社社頭の広報活動の現場には、この年の十一月、東京都本部運営委員の加納健一元空将に伴われて、小野孚一事務局長に引き合わされた。どっしりと重みのある体躯、それでいて物腰柔らかな対応が印象に残っている。

さて、この頃の戦友連の皆さんの多くは六十歳代、意気軒昂で、小野さんを中核としてそれぞれの役どころ、持ち場を心得、自主的に行動されており、今日も変わることのない亡き戦友への思いが、ひしひしと私の胸に感じられた。

これと対象的に、戦没者に対する国家、国民の豹変した仕打ち、それは神社での陸海の戦友会が行う慰霊祭に参列する人々も例外でなく、靖國の現状、英霊への国家の背信、裏切りが理解されないまま、「慰霊祭を何回やっている」「何回参拝しているから」で思考が停止し、単に親睦会化していることを、社頭に一ヵ年余り立つことによって痛感した私は、昭和五十八年の末にこのことを訴えるチラシ、

「生き残った戦友各位よ、あの戦友の死とは何んであったのか・・・」と「英霊の痛哭(なげき)に一人一人が、心から耳を傾けましょう・・・」の拙文を作成した。

そして、この私と思いを同じくした一人に赤堀光男さんがおられ、このことを、マイクを手にしてしばしば熱を込めて呼びかけておられた。

またこの一文は、亀山正作さんの助言で一部修文し、チラシと共に立看板に記し 、第二鳥居前に掲げた。若干長文となるが、「生き残った戦友各位よ」の方を、抜粋して記すこととする。

『先の大戦に生き残った我々の抱く英霊への心情は単に慰霊・追悼の行事のみにとどめてよいのであろうか・・・(中略)・・・

いま英霊に声あれば、今日英霊のおかれた報われぬ死に悲憤し、この祖国日本の心なき変節に激怒する血涙の絶叫が聞かれるであろう。

我々はこの英霊の叫びに何んと応えるべきか。多くの亡き戦友の殉国の心を、正しく次代に継承することが、生き残った我々の一人一人に託された使命と心得るべきではないのか。(中略)

それは慰霊・追悼にもまして、英霊が求めている「英霊の名誉回復」なのである。戦友各位よ、この英霊の絶叫の実現のため終結しようではないか。』






中曽根参拝、藤原会長、アンケート




昭和六十年代に入っての画期的な出来事は、中曽根康弘総理の八月十五日(昭60)の公式参拝を挙げることができる。

この日、正午を過ぎた頃から、内苑の参道両側に鉄パイプのバリケードが設けられ、総理は午後一時四十分戦友連の待ち構える第二鳥居前を通過して本殿に向かった。その時両側の人垣から波のような歓声があがり、このどよめきの中に一段大きく、戦友連の皆さんの声があった。

しかしこの歓声は、一時のぬか喜びにすぎなかった。「戦後政治の総決算」と唱えていた総理の政治姿勢とは裏腹に、信念なく中共に屈する人騒がせにすぎず、その後事態は悪化したのはご案内のとおりである。

この折り、反靖國の一団がこともあろうに、戦友連の陣地ともいうべき第二鳥居前で、参拝阻止の行動に出るハプニングを起こした。誰が言ったでもなく、警官の取締りを待つことなく、戦友連の手によって往時の武勇伝が発揮されるという逸話があったことは、余り語られていない。

話は前後するが、この年の四月には、第一回目の「同期の桜を歌う会」が大村益次郎銅像裏で催され、その一週間後の十四日に、第十六回の「戦友連大会」が銅像前で行われている。

写真を覗くと藤原岩市会長の闊歩している姿を認めることができるが、藤原会長とは、私が航空自衛隊に転官する前の昭和三十四年に、陸上自衛隊調査学校の校長としてお仕えした上司で、退官後にあって奇しくも靖國をめぐる国民運動を通じて、ご指導をいただくめぐりあわせとなり、これも英霊のお導きかと考えている。

さらに、中曽根参拝後の社頭の広報活動で思い出されることに、アンケート調査がある。

それまでは、総理の公式参拝を求める署名運動を行っていたが、参拝が一応実現した時点で署名は中止し、翌六十一年の八月十五日の参拝を期待していたが、これがかなわなかったことから行うこととなったもので、今日までその時どきの靖國をめぐる状況に即した内容のアンケートが続けられてきている。そして、その集計を進んで引き受けているのが、長老加藤又一さんである。

ちなみに、このときの設問は当然のこととして、「中曽根総理が参拝を中断していることについての可否」等が記されている。






みたま祭、絵画展、請願行進




七月の「みたま祭」は、戦友連の年中行事のイベントの一つである。

英霊にこたえる会は平成四年に、それまでは地方本部の献燈は歯が抜けたように疎らだったのを、一区画を借り切って四十七全都道府県本部の献燈を行うこととした。

ただしこの場合、その上段に「殉国のみたまに感謝を」の十燈を掲げることを神社側に求めたところ、他の献燈とのバランス上拒まれ、その代り大鳥居のところに、白色の堤燈に赤字で「靖國の御霊に感謝をいたしましょう」を神社で掲げていただくこととなった。

何の為にみたま祭をやり何故献燈するのかを考えたとき、その原点の呼び掛けがあってもよいのではないかが、私の持論であった。

また、この年の八月十五日の「戦没者を追悼し平和を祈念する日」には、この日をはさんで十四日から十六日までの三日間、「戦没者慰霊絵画展」を陸士六十一期生で油絵を描かれる松本武仁さんを中心に第二鳥居前で催し、好評のうちに終了したが、その松本さんも短い入院のすえ他界され、その遺作となった多くの特攻の油絵が、今日も社頭に掲げられて参拝される人々の足をとどめている。

さて、紙面も少なくなったので、この辺で社頭を離れ、その延長である思い出深く多くの皆さんが参加した街頭示威行進にふれることとしたい。

その第一回ともいえるのが、終戦五十周年を迎えての国会で企図されていた「戦争謝罪国会決議に反対する請願デモ」への参加である。

平成七年二月三日の厳寒、日比谷野外音楽堂から国会・虎ノ門・日比谷公園までの行進であったが、体調を崩されていた亀山さんが参加され、その結果逝去なさったことは無念の一言に尽きる。その後の「請願日の丸行進」、今年の「追悼施設阻止街頭行進」と老兵の行軍は続いた。






戦友連解散、老兵の意思を継ぐ若者




戦友連は、本年末日に解散する。その終焉を限りなく惜しむ声があることも事実である。

しかし、昭和四十三年十月二十八日結成以来三四年間、ただ一つ「靖國神社を国の手で祀ってもらいたい」のこの一事に結集して、一念を貫いた組織が他にあったことを私は知らない。

皆さんは、やるべきことは既にやられた。

昨今靖國をめぐる諸問題に若者の関心が高まり、現にその若者らが戦友連と行動を共にしている。皆さんは、この若者に後事を託され今後は戦友連OB、御意見番として自由にご参加下さい。

佐藤友治さんの往時の天秤棒姿、松下金三郎さんの甲斐がいしく立ち廻る姿も、無理をされない範囲で再現されることでしょう。

長いこと本当に有難うございました。感謝




平成14年10月25日 戦友連405号より


【戦友連】 論文集