中国が靖國神社に反対する理由





評論家 (こう) 文雄(ぶんゆう)   







異常な中国新人類の反日大合唱




毎年八月十五日の終戦記念日前後、中国でいえば「八年抗戦勝利記念日」前後、中国のメディアは決まって反日の大合唱を行う。そして、その時必ず持ち出されるのが、「南京大虐殺」、「三光作戦」、「万人坑」・・・等々の日本軍による残虐行為である。

最近では日本非難の大合唱は日常化しつつあるだけでなく、低年齢化の傾向も強まっている。それは言論の媒体として従来の新聞、雑誌やテレビ、ラジオに加え、インターネットも普及したからだ。

若い世代の日本非難のフレーズ(慣用句)は辛辣にして過激だ。たとえば、

「日本人よ!お前たちの野蛮さ、残忍さを覚えておけ!」

「日本!世界で最も卑劣で最も恥さらしな国」

「日本鬼子よ!より強くなった中国人民と対抗するのは死への道だ!」

「日本という無頼漢の国を地球上から消し去ろう」

「日本人は劣等民族だ」

「日本民族を消滅させよ!小日本よ地獄へ行け!」

「日本の女をやっつけてしまおう!」

「殺せ!殺せ!日本人を殺せ!大和民族を滅亡させよう」

「日本人は神様が作った不良品」

「日本人という二本足の動物を根こそぎ滅ぼそう」

「日本列島を占領せよ」

「中国には日本を消滅させる権利があり、日本を消滅させる義務を負っている」

「日本民族の血を持つものを滅亡させよ。神が中国人の手を借りてお前らを罰するのだ」

「核兵器、科学兵器、生物兵器を使ってでも、この地上から日本民族を徹底的に消滅させ、日本を地図から完全に抹消せよ」

これは中国新人類の欲求不満の表われと見てもいいだろう。中国は言論統制の国だが、日本への攻撃に関してだけは言論の自由の国である。インターネットはあたかも青少年の言論解放区であり、そこで彼等は不満を発散させているのである。

ではなぜ中国の新人類は、それほど日本を憎悪するのか。






中国の侮日・反日は改革解放から




中国人の対日感情は近現代に入ってから、ことに日本の開国、維新以降大きく揺れ動いた。長い日中関係の歴史から見ると、中国人の反日感情は二十世紀に入ってからのものである。たしかに十九世紀末には日清戦争はあったものの、中国人はまだ「反日」ではなかった。

隋唐の時代以降、中国から見た日本は東方海上の東夷の粟散国、(艸/最)爾(さいじ)の国(小さい国)であった。倭人など朝鮮人と同様同じ穴の(むじな)であり、人間よりも禽獣に近い夷狄(野蛮人)としか見ていなかった。「日出ずる国VS日没する国」という聖徳太子の国書など、中国からすればただの井の中の蛙であり、夜郎自大にしか過ぎなかったのである。

たしかに倭寇の頃のように、中国が「恐日」だった時代もあるが、基本的には「蔑日」の時代は日清戦争まで続いていた。

日清、北清、日露の三つの戦争で示された日本の強大な実力は、中国人に大きなショックを与え、伝統的な対日観を逆転させ、「慕日」「尊日」「師日」の時代となり、日本を近代国家のモデルにした時代が辛亥革命後の袁世凱大総統の頃まで続いた。

日本の対中「二十一ヵ条要求」、そして一九一九年の五・四運動をきっかけに「反日」感情が高揚し、満州事変後は「排日」運動が激化するなどで、日中はそれまでにない対峙、対立、そして本格的戦争の状態に入った。

戦後の人民共和国政権樹立からしばらくは、中国人が最も夢と理想に燃えた時代であり、中華思想が完全燃焼する時代だった。人々は「世界革命、人類解放、国家死滅」の「歴史使命感」に燃え、「東風が西風を圧倒する」と信じて疑わず、「二十年以内にイギリスを追い越し、二十世紀中にアメリカに追いつく」と自信満々となって、社会主義建設に猪突猛進していた。しかし社会主義建設、ことに大躍進には失敗し、文革も単なる「十年動乱」でしかなかったという惨めな結果で終わっている。

そうした挫折感から、マルクス・レーニン主義や社会主義への信念は大きく動揺し、七〇年代末から改革開放路線に転換すると、社会主義のイデオロギーに代わって愛国主義と大中華民族主義の運動が、共産党の一党独裁体制を支える精神的支柱となった。これが今日の反日、敵日、侮日の時代的背景である。






なぜ中国は靖國神社参拝に反対するのか




愛国主義や民族主義を育てて行くには、過去の日本の「侵略」「残虐性」や現在の「軍国主義復活」を強調することで、国民の危機感をあおることが必要不可欠である。そうする過程でのヒット作が、他ならぬ「南京大虐殺」であり「三光作戦」だ。もちろん教科書検定問題、そして靖國神社参拝問題もそうした流れのなかから提起されたものである。

そもそも「靖國」問題は日本人の文化や魂に関わる問題であるが、中国の「靖國」批判の根底には、日本文化に対する甚だしい無理解がある。

日本人と中国人の死生観はまったく異なっている。日本人は、死後の世界に現世の善悪、怨恨は持ち込まれないものと考えている。生前いかに悪人であっても、死後はみな仏や神となり、共通の祖霊として守り神になると思っている。だから個人の評価はあくまで今生に属する問題であって、死後の魂にまで生ける人間が関与するのは、明らかな神への冒涜になる。

一方、中国は易姓革命の国であり、日本のような祭祀国家ではなく、一家一族という血族集団の社稷、祖祠、祖廟を中心とする繁栄のみが祭事における関心事である。国家というものにしても、特定の一族の天下でしかなかった。

だから血族以外のものには絶対不寛容であり、ましてや政敵に至っては、死んでも屍に鞭打ち、その肉を食らい、魂までも食らおうとする。このことは私が『正論』(平成13年8月号)で詳述した通りである。

もちろん彼らの「靖國」非難は、死生観や祭祀のあり方の相違からくる文化摩擦の問題としてだけ捉えることはできない。中国の意図はきわめて政治的であり、倒壊寸前の社会主義体制防衛のため、国内の愛国主義、民族主義を高揚させようというのが最大の目的だ。

だから中国は日本の首相や閣僚、あるいは一般国民の靖國神社参拝を「侵略を美化する」「軍国主義の復活」という、現実離れの表現を敢えてするのだ。しかも日本が軍国主義を「招魂」して、再び中国侵略を企んでいるとまで極論している。「靖國」ではなく「軍国」神社とするなど、神道を邪教としてオウム真理教と同列視するに至っては、無理解というより明らかな悪意の歪曲だ。

首相の靖國神社公式参拝は、布教活動でもなんでもない。ましてや侵略を美化する行為でもないし、軍国主義を宣伝するようなものでもなおさらない。それはあくまで全国民を代表して、国のために亡くなった戦没者英霊を慰めるというものであり、ごく自然な国民感情の発露であることは、弁解も釈明も要さない。






なぜ日本人は魂すら守れなかったのか




中国が「靖國」や「教科書」への非難、譴責を年中行事のように繰り返すようになったのは、そう古い話ではなく、改革開放後の八〇年代に入ってからである。特に江沢民の時代からそうした日本への内政干渉の度が深まったわけだが、軍事予算が十四年連続二ケタ増を示していることを考え合わせても、その狙いが体制の防衛にあることは明らかである。その背景には、第三世代国家指導者の党内における権力基盤の弱さや、民意の基礎の欠如という危機的な状況がある。

中国が反日、侮日に狂奔するのは、国内のナショナリズムを煽り、共産党統治の正当化と延命策であることは、米国のクリントン政権時代の元中国政策担当高官であるカリフォルニア大教授スーザン・シャークも論文で指摘している。

日本の過去の「侵略」「残虐性」の強調や捏造、「靖國」「教科書」に関する一連の内政干渉が社会主義政権の最終防衛のものであり、しかもそれがかなりの成功をおさめていることは、敵日、侮日運動の日常化、低年齢化から見ても明らかであろう。

その「論より証拠」として、九六年の『中国青年報』に掲載された日本のイメージ調査結果を挙げることができる。そこでは、中国の青少年が「日本」という国名で連想するものとして「南京大虐殺」が八三・九%、「日本人」のイメージとしては「残虐」が五六・一%に上っていた。

日本を全く知らない若い世代にそうした日本観を植えつづけているのが、中国の敵日教育と政府管理下のメディアである。かくして、上記のインターネットによる対日アタックが盛んに行われるようになったわけだ。

このような事態に立ち至ったのは、なにも中国だけの責任ではない。それ以上に万死の大罪を背負わなければならないのが、実は日本政府である。

従来あまり指摘されてこなかったことだが、日中戦争の敗戦でたたみかけられるかたちで、日本は戦後、さらに二つの「敗戦」を背負うことになったのだ。

その一つが、本来なら純然たる内政に属するはずの問題を、中韓の恫喝に屈して外交問題にせざるを得なくなっていること。「靖國」しかり、「教科書」しかりである。日米安保の問題にしても、それはいえる。

もう一つは、本来なら遠い「過去」に属する日中戦争の問題である。そもそも日本人は「過去」を水に流すのが伝統文化だ。まして戦争責任の問題は、すでに平和条約によって完全に解決している。しかし、それでありながら不思議なのは、日本が知らず知らずのうちに「現在」「未来」の死活問題より、「過去」の問題に縛られ、振り回されるようになっているということだ。日本はいつのまにか、滑稽で情けない謝罪国家になってしまったのである。

これは明らかに日本側の問題である。それで中国の反日、敵日、侮日感情が増長しているからといって、日本に非難する資格はまったくない。

本来なら「靖國」問題は日本の文化の問題であり魂の問題である。ことに合祀という靖國神社の精神は、中国の「魂まで食らう」文化に比べれば、人類が共有すべき精神文化遺産ともいうべきものといっていい。

されば私は最後に問いたい。魂すら守れない現在の日本人に、どう将来を語ることができるのかと。

(了)




(注)この記事は月刊「やすくに」の本年9月1日号より転載しました。




平成14年10月25日 戦友連405号より


【戦友連】 論文集