ある大会での意見発表



歓呼の声と旗の波、高らかに歌う軍歌の中で、家族と別れ戦地に向った時のあの張りつめた感動は、今も忘れることはありません。

戦場において、生と死は常に隣り合っており、苛烈な環境の中で一つの目的のため、互いに助け励まし合い、ともに泣き、ともに笑った良き人間関係が実って、戦友愛となったのであります。

民族の運命と祖国の興亡をかけた大戦争、広大な戦線に乏しい物資で戦いを続けることはいかに苦しいことであったか、幾多の戦記がこれを物語っております。

この困難な戦いに長年よく耐え得たものは、燃えさかるような強烈な祖国愛と、限りなき戦友愛によるものであります。私達は死んだら国の手によって、この靖国神社にお祀りされることを信じ、家族や戦友達に九段の花の下での再会を誓い合ったのであります。

およそ世界いずれの国においても、その国のために殉じていった人びとは丁重にお祀りされており、その国を訪れる公人は戦士の碑に花環を捧げることが独立国家の外交慣例となっております。この意味においては、靖国神社を現在のまま放置している日本は、世界に向って「われ独立国なり」ということはいえないのであります。

たしかに、戦後の日本は驚異的経済発展を遂げておりますが、その繁栄は、二百五十万の尊い生命によって守り支えられてきたのである、ということを申し述べたいのであります。










巷間、何かというと人間尊重という言葉がきかれます。人間尊重とは、今日生きている人びとにのみ与えられることではありません。日本の安泰と繁栄の礎として散華していった人達に対してもいえることで、それが英霊への感謝、祈る心に通じるのであります。

「靖国神社を国の手でお祀りしよう」と私たちが外に向かって叫ぶ時、はね返ってくる反対意見の中には、しばしば平和という言葉に対する祈りの心は全く感じられないのであります。

祈りの心のないものが、平和を訴える資格はない!

このことに関しまして、反対や批判の声はしばしば新聞紙上に、またテレビを通して流れておりますが、われわれが祈りながら心で訴えております立場のことは、ことさら避けているが如く、甚だしきは極めて歪曲した表現をされることは、誠に遺憾なことであります。

戦後二十五年、その心の底に沈んでしまった日本人としての意識、人間としての良識がかき立てられる時、やがて国民の中から理解と大いなる協力の声があがってくるのです。然しながら、この靖国神社国家護持を達成するには、国会において政治的手続きを経ねばなりません。祀られる多くの英霊は、それぞれに思想、信条、宗教等異なっておりますが、一途に祖国防衛の防人として散っていったのであります。従って国会におきましても、この問題に関しては与野党一致し、法案通過をはかられたいのであります。










昨年につづき、ことしは二千万の署名をたずさえながらも去る五月十三日、再び廃案の憂きめにあいました。次期国会においては開会冒頭において法案提出ときいております。日本には「二度あることは三度」という諺があります。何やら不吉な予感も致しますが、また「三度目の正直」という言葉もあります。「三度目の正直」これを信じます。

かつて特攻隊の人びとは還らざることを期し、大空の彼方に飛び去ったのであります。ご参席いただきました国会議員その他諸先生方、命までもとは申しません。自からの政治生命をかけて、この法案通過に全力を尽していただきたい。国民が政治に失望した時、その国は乱れます。それは古来歴史の示す処であります。

皆さま、靖国神社国家護持が達成された時にこそ、二百五十万の英霊は「ああ、俺たちの死は無駄ではなかったのだ」とニッコリ笑って、静かに平和の眠りにつくことでしょう。


(昭和四十五年十月)








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