国は暴に亡びず、愚によって亡ぶ



注目の参議院議員選挙も終った。野党は数名の議席増で躍進躍進と鬼の首でもとったように有頂天の喜びようであり、片や自民党は数名の議席減でご存知の如き態である。

そもそも自民党の凋落は、靖国の英霊を戦後三十年の今日、なお優柔不断、己たちの目先の利害にのみとらわれ、放置して顧みない政治姿勢に、根本的原因があるのではなかろうか。

物質的繁栄にのみ目を奪われ、日本民族の心を忘れたところに、今日の危機の根因がある、と識者が指摘して久しい。靖国神社の国家護持こそ、国家道義の根基であり、民族精神の回復であり、総ての施策の大本であろう。この事をなおざりにして、諸事妥協を事とし、己の保身のみに心を奪われてきた結果が、今日の姿と断言しても過言ではあるまい。

この度の選挙で、先の国会末期、参院自民党議員の中で靖国神社法案に反対の態度を表明した者四名、そのうち一名は引退し、今回の改選議員は二名、長谷川仁(新宗連)・永野鎮雄(仏教会)両氏の落選を何とみるか。

自民党は数名の議席減で何も騒ぐことはあるまい。参院からは大臣や政務次官を出すのはもともと好ましくないと言われておるのだから、この際全部止めにして、参議院議員としての職責に専念させれば、保守系無所属を加えて優に過半数を維持出来る。ただ何時までも派閥と自己の利害のみを考えて行動するのでは、今日の難局を乗り切ることは不可能であろう。










戦友各位、われわれは先の国会終了直後において、自民党の靖国神社法案取り扱いに対する態度を評価し、「必ずしも楽観すべきでないこと」を確認し、今後とも積極的に運動を推進する決意を新にした。今や遺憾ながら政局は一層混迷の度を深め、去る六月四日の自民党声明など、一片の反古と化したことを自覚しなければならない。われわれは此の時こそ、自民党が真に目覚めて、国家としての基本問題について堂々と国民の前に理非を明らかにし、勇断実行することを期待するものであるが、現実は必ずしも楽観を許さない。

「基本的人権」結構、「信教の自由その他もろもろの自由」大いに結構。ただし、遠い未来はいざ知らず、現実の世界で国家なくして一日も生存し得ないことを、われわれは自覚すべきである。国の為に、祖国の平和と繁栄を念じて散った英霊を認めないような国家、国民であって、果して野党の宣伝するような平和な暮しが期待できるのだろうか。

「自由と平和を守る自由民主党」、「国民の自由を守る日本共産党」、これはご存知両党の選挙ポスターである。一体どうなっておるのだろうか。

「靖国神社法案は憲法違反だ」、「信教の自由を犯す」、「軍国主義復活」―――反対者はもっともらしい理屈をつける。










マスコミは国家権力や体制側に対しては容赦なく反抗するが、国家権力に代って、何か別の手でコントロールされておるような記事が多い。有識者はマスコミの偏向と言うが、無智な大衆は新聞の報道に引き込まれてそのように信じ込む。それどころか、政治家までが新聞報道には必要以上に神経を使い、偏向報道に対する批判は、その反撃を恐れてか臆病である。

この分では世の中は新聞の意図する方向(うしろでコントロールしておる或る勢力の思う方向)へ誘導されかねない。いや既に相当の重症である。

もっとも、このような方向でわが国・民族の平和と繁栄が維持発展し得るのであれば、二百五十万の英霊も喜ばれるであろうし、靖国神社を国家で護持する必要もない。腐りかけた自民党の崩壊など物の数ではないのだが、果して如何なものだろう。










「国は暴によって亡びず愚によって亡ぶ」と言う。

戦友の皆さん! 今こそ先ずわれわれ自身が事態を冷静にみつめ、靖国神社問題の本質について認識を新にし、靖国神社国家護持の貫徹こそ、今日に処する唯一最大の根本義であることを自覚し、広く国民に訴えなければならない。


(昭和四十九年七月)








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